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「すみません」の黒船

 ジャッキー・ロビンソンという野球選手がアメリカにいたんです。

 その昔、有色人種の参加を禁じていたメジャーリーグにおいて、アフリカ系アメリカ人として様々なタイトルや賞を獲得、有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた偉大な選手です。

 その輝かしい実績により、現在ロビンソンの背番号はメジャーリーグ全球団で永久欠番となっています。野球選手の背番号は基本的に使い回しですけれども、それを本人しか使用できないようにすることで栄誉を称えたわけです。その背番号が42なんです。

 日本では4は死を連想させる数字として、担当の9と共に、伝統的に忌み嫌われがちな数字として長らく君臨してきました。42しになんて4の進化版みたいな扱いであり、ご先祖様の時代から「とにかく避けなきゃ」と思われてきた数字です。当然、日本のプロ野球でも「縁起が悪い」と背番号にしたがる人はほとんどいませんでした。

 そこへやってきた助っ人外国人が言うわけです。「こんな素晴らしい背番号をどうしてみんなつけようとしないんだ。アメリカじゃつけたくてもつけられないんだぞ」と。特定の数字を忌み嫌う習慣自体はいろんな国にあるようで、ウィキペディアの「忌み数」を見ると他国で「何でこんな数を嫌うんだ?」いう習慣がたくさん載っていて面白いです。

 我々が13に対して特に何とも思わないように、助っ人外国人は42なんてむしろ背中につけたくて仕方がない数字だったりするわけです。習慣は我々の行動を決めてしまう、非常に強い力を持っていますけれども、異なる文化圏の人はそんな習慣に対して何も感じないどころか、習慣の力を簡単に打ち破ってしまう。もちろん、異なる文化圏の人はその文化圏の習慣に縛られているんですけれども、いずれにしろ、文化の違いはよその習慣を往々にして打ち破りがちなんです。

 ところで、私は学生時代、自己啓発本にハマっていたという気恥ずかしい過去があるんですけれども、そんな自己啓発本にちょこちょここんな文言が出てきたんです。「『すみません』より、『ありがとう』と言おう」。

 何かしてもらった時、つい「すみません」と言ってしまう人がいますけれども、「ありがとう」のほうがより感謝が伝わるからいいでしょ、みたいな主張だったと記憶しています。読んでた当時は今より素直でしたから、「なるほど、確かにそうだ」と思って実践していたんです。

 しかし、人間とは不思議なもので、あまりに何度も言われ続けると逆に「本当か、それ」と思う時があるんです。すみませんよりありがとう派は結構な広がりを見せているらしく、本や動画、ネットでも異口同音に語られ、実際に検索すると大量の情報が簡単にヒットします。そうなると、思ってくるわけです。「『すみません』はそんなに悪い言葉なのか」と。あんまり否定されるのを見ていると、さすがに『すみません』が可哀想になってくるんです。どうしてそんなに言われなければいけないのか。

 少し調べたら、ヒントとなる言葉が見つかりました。「『すみません』より『ごめんなさい』」です。「すみません」は何かをしてもらった時に使える言葉ですが、何かをやらかした時にも使える言葉でもあるんです。意味の幅が広いゆえに、いろんな状況で使える。この点を問題視されているようなんです。「そう言っておけばいいと思ってんだろ」という感じが強いとでも言いましょうか。

 一方、「ありがとう」は感謝を示す場合に限って使われますし、「ごめんなさい」は謝罪限定です。謝る時に「ありがとう」はまず使いません。言葉の守備範囲の狭さが使う人の誠実さに繋がっていると考える方がいらっしゃるわけですね。「自分のためにちゃんと言葉を選んでくれている」となる。

 でも、言葉を選ぶことが誠実であることに必ず直結するとは言い切れません。「言葉巧みに」という表現がしばしば詐欺師に対して使われることからも、それがうかがえます。逆に誠実な気持ちで「すみません」と言っている場合もあるでしょう。それなのに、「すみません」がとにかくボコられすぎてるように思えてならない。

 「すみません」支持派は国内から一掃されたのでしょうか。そんな中、何の気なしに読んだ本で、海外の方がこんなことを書いていました。「『すみません』という日本語は本当に素晴らしい」。やはり、違う文化の人はこういう時に強い。すみませんよりありがとう派の圧力なんてなんのそのです。

 背番号42は、助っ人外国人の影響か、今では使っている日本人選手もいらっしゃいます。ひょっとすると「すみません」も42と同様、黒船によって価値観に変化が起きるかもしれません。

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