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老眼鏡を静かに待ち続ける

 今まで裸眼で来ているんです。どうも遺伝のようで、父も、父方の祖父も眼鏡の要らない生活を長らく過ごしてきたようです。

 眼鏡が要らないならこんな便利なことはない。眼鏡やコンタクトを必要としている方々は皆さんそうおっしゃるかと存じますが、人の欲望は「ないから欲しい」という一面がございます。眼鏡を必要としない生活を続けてきた幼少期の私は、変な欲望のツボを突いてしまったようです。眼鏡をかけるのっていいんじゃないか。そう思うようになってきたんです。

 最初は友達の眼鏡を借りてかけてみるところから始まりました。眼鏡をつけると、耳や鼻にかかる微妙な重みが何やら心地よい。しかし、当然ながら度は合ってませんから、耳や鼻の重みとは反比例するかのように視界が気持ち悪い。他人の持ち物ということもあり、そう長くは眼鏡をかけられませんでした。

 そのうち、世の中に伊達眼鏡という便利なものがあると知りました。当時は未成年でしたし、今より世間を知らない人間でしたから、どこに行けば伊達眼鏡が手に入るのかも分からない。とりあえず、母に「伊達眼鏡が欲しいんだけど」と恐る恐る切り出してみますが、案の定「こいつ何言ってんだ」みたいな表情で軽くあしらわれて終わりました。この時の母の態度に軽く傷ついたのか、大人になった今でも「何で伊達眼鏡をかけてんの?」と聞かれるのが怖くて、未だに伊達眼鏡購入に至っておりません。

 もちろん、眼鏡に対する欲望はそんなに激しいものではありません。「眼鏡はどこだ!眼鏡眼鏡!」と血走った目で辺りを見回し、よだれを垂らしながら街中を徘徊していたわけではない。しかし、カビが細い体をゆっくりと伸ばしていくように、眼鏡に対する欲望は私の心にずっとこびりついていました。

 その影響か、2次元3次元を問わず、眼鏡をかけてる女の子を好きになるようになりました。思春期ともなれば、当然ながらその好みがモロに出る。アクションだって起こしてみる。しかし、隣のクラスの眼鏡女子は私の不穏な欲望を感じ取ってか、全然OKしてくれません。ようやくお付き合いができた相手はほとんどが図られたかのように裸眼の子でした。裸眼かと思ったらコンタクトだった、というチャンスにもたまに巡り合えはしましたが、「眼鏡かけてよ」と頼んでも「え、やだ」と一蹴されて終わりでした。

 もう終始こんな調子でございます。眼鏡に避けられ続けた半生と言っても過言ではありません。何でそんなに眼鏡を追うの、とは我ながら思いますけれども、眼鏡は何でそんなに私を避けるのか、とも思ってします。

 ただ、そんな私にも希望がございます。老眼鏡です。あれほど裸眼を通してきた父が老眼鏡をかけるようになった時、「これだ!」と思いました。老眼鏡ならばちゃんと理由があって眼鏡をかけられるわけです。私の心に巣食う変な欲望が変な風に表へ出た結果では決してない。少なくともそう言い訳はできます。

 視力が落ちるのは不便な点が多いです。それは私も同じです。ただ、堂々と眼鏡をかけられる。そう考えるだけでも、老眼に対するネガティブな印象が私の中ではかなり払拭されています。将来、嬉々として老眼鏡をしこたま買い込む私の姿が日本のどこかで見られると思います。とりあえず、目を血走らせたりよだれを垂らしたりせずに老眼鏡を買うイメージトレーニングを今からしておこうと思います。

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