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「嫌い」を探求する人

 どうしても好き嫌いができてしまうのは珍しくありません。そして、嫌いなものを避けたくなる気持ちも個人的にはよく分かります。しかし、よく分からないのに何となくのイメージで嫌っていることはないでしょうか。

 私の知り合いに、嫌いなものを敢えて避けない方がいます。仮にその方を大島さんとしておきますけれども、大島さんは嫌いなものができた時、むしろその嫌いなものについていろいろ調べるんだそうです。どうしてなのか聞いてみたところ、こんな答えが返って参りました。「よく分からないのに嫌うのはよくない。ちゃんと調べて、どうして嫌なのか納得してから嫌いたい」。

 嫌うのに明確な意思が感じられて驚いたんですが、確かに何となくのイメージで嫌っている方はいらっしゃいます。世の中には「嫌いな芸能人ランキング」みたいなネガティブなランキングがございますけれども、そのランキングに投票した方の嫌いな理由を読むと10年以上前のイメージで嫌っている人を見かけるんです。今はもう全然違うのに昔のイメージでまだ嫌ってる。たぶん、嫌いだからずっと避けていて、それゆえにイメージが更新されずにきちゃったんだと思います。

 大島さんは自身がそういう風になるのが嫌なんだと思います。昔のイメージとか間違ったイメージなんかで嫌うのはよろしくないでしょうから。ただ、大島さんが嫌いなものをキッチリ調べるのには、他にも理由があるんです。それは「嫌いなものをなるべく限定させるため」だというんです。これはどういうことなのか。

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があります。「あるものが憎くなると、それに関連するものまで憎くなる」みたいな意味です。これが大島さんとしてはよろしくない。袈裟に罪はないんだから、嫌いになる必要はないと考える。

 「わざわざ嫌いなものを増やす必要はない」と大島さんは言います。仮に坊主が嫌いだったとして、どうして嫌いになったのかを調べてみたところ、昔、親戚の法事にやってきた坊主の態度がとにかく悪くて嫌いになったと判明したとします。そうなると、法事に来た坊主ひとりを嫌えばいいわけで、坊主全体を嫌う必然性がなくなります。何だったら、そのひとりの坊主も法事の態度がダメだっただけで、酒を飲む相手としてはいいかもしれない。そうなれば、ひとりの坊主の法事に対する姿勢が嫌いだという話になり、嫌いの範囲が更に狭まるわけです。

 今日も大島さんは嫌いなものを減らすため、嫌いなものについて調べています。嫌いな作家ができたら、その人の著作をとりあえず読む。少なくとも作品の一覧や作家がどういう人間か、どんな人生を歩んできたかくらいはキッチリ調べるそうです。別にその作家を批判をするわけではなく、ただただ自分が納得して嫌うための調査なんです。

 嫌いなものをわざわざ調べるのはつらい面もありますが、何となくのイメージで嫌い、あまつさえ「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態にまでなってしまうよりはいいのかもしれないなあと思うようになりました。

 しかし、この方式にはひとつ問題がございます。そういうスタイルで生活していると、詳しいものが好きなものとは限らなくなってしまうんです。実際、大島さんは友人知人と話している時、「大島さんって〇〇に詳しいですね。もしかして好きなんですか」「いや、嫌いです」となることが多いようです。

 大島さん的には別に気にしてないようですが、私としてはなんだか「足に薬を塗ったら4軒先の家の壁に蕁麻疹ができた」みたいな思わぬ副作用に見えて、なかなか大島さんのようなスタイルへ移行できずにいます。

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