大人になったわけではない

 小学校1年生の頃、6年生が随分と大人に見えました。でも、いざ自分が6年生になってみますと、外見はともかく、中身は小学1年生の自分が色濃く残っているんです。精神とはこんなに成長しないものかと驚いたものです。

 それから中学生になり、高校生になり、大学生になり、社会人になり、節目節目で同じような驚きを繰り返し経験してきました。社会人になった辺りでいよいよこう思うようになりました。「あ、これは死ぬまで繰り返すやつだ」と。

 私はちゃんとした大人の精神をこの身に宿そうと精進してきたつもりなんですが、どうも私の精神は理想に近づこうとしないんです。これは一体どういうことでしょうか。私には才能がないということでしょうか。

 話は急に変わりますが、人のことを悪く言うのはよくないということになっています。でも、どうしても言ってしまうのが人間の一面としてあると思います。もちろん、個人差はございまして、全く言わない人もいれば、口を開けば誰かを悪く言う人もいるでしょう。昨今ではインターネットを通じた悪口や行き過ぎた批判が問題になってはいますが、形式が違うだけで人が誰かを悪くいうのはきっとずっと昔からあったことなのだと思います。

 大学生の頃、とある大学教授の本を読んでいたんです。と言っても、専門的な本ではなく、エッセイやコラムに近い緩めな内容でした。なので、スルスルと軽快に読んでいたんですけれども、あるエッセイで何の脈絡もなく唐突に別の大学教授を批判する文章にぶち当たったんです。仮に批判する側をネコ教授、批判される側をイヌ教授といたしましょう。

 ネコ教授の批判の対象はイヌ教授が出した書籍でした。ネコ教授のそれまでの文章は非常に冷静かつ客観的で、さすが大学教授と言うべき知性にあふれていたんですが、イヌ教授の批判になった途端、急に全ての知性が吹き飛ばされたような文章になったんです。ネコ教授はイヌ教授の文章を引用してまで批判を繰り返します。

「あいつ自分の本で『この本のページをめくってみてください。43ページが44ページになります』と書いているが、バカなんじゃないかと」

 書籍の文章は編集の人がしっかり内容をチェックしてから製品化してるはずなのに、こんなにしっかり特定の人を悪く書いてたのに「え、いいの?」という衝撃を覚えました。

 とりあえず、その時はそれで終わったんですが、しばらくして私はたまたまイヌ教授の書いた本を手に取ったんです。そこで初めて、イヌ教授が大学教授らしからぬふざけた文章を書く人だと知ったんです。何なら、その芸風ゆえに大学の名物教授になっていたとのこと。確かに、そうでなければ、わざわざ手間とカネをかけて「ページをめくればページ数が進むよ」みたいな文章を書いて印刷物にしないでしょう。

 ということは、猫教授はウケを狙ってふざけている人に向かって「ふざけてんのか」と怒ってたことになります。おどけるピエロに向かって「何だその格好は」と怒るようなもので、もうちょっと相手の事情を知ってもよかったんじゃないかと思ったわけです。

 しかし、それからしばらくして、いろいろお笑いを見ているうちに思ったんです。あれはいわゆるプロレスというやつじゃないのかと。要は、猫教授と犬教授は既に旧知の仲であり、その信頼関係の上で強めにいじったのではないかという仮説です。だって、いきなり見ず知らずの教授のネタにマジギレするって書いた人にもリスクがあるでしょう。しかも、著書には自分の名前がしっかり出ています。互いに名前をはっきりと打ち出して著書でやりあう。考えれば考えるほどプロレス感が出てまいります。

 このような思考の変遷は言わば大人になったということですね、と自らを思い込ませようとしたんですが、まあ無理でした。

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