『チェンソーマン』デンジはなぜ泣いたのか/B級映画が好きなのか

『チェンソーマン』第1部をふた月ほど前に読み終えた。雰囲気が素敵な漫画でとても気に入ったが、パワーちゃんの死にショックを隠せず、第2部が読めていない。
とはいえその後の進み具合が気になるので、2部を毎週読んでいる友人に進捗状況を聞くこともままある。すると、最近「落下の悪魔」が出てきたとのこと。彼女(?)のビジュアルが綺麗だと言うのでためしにググってみたら、なるほど美しい。細身の先手観音とカマキリのハーフみたい。

で、どうもこの「落下の悪魔」のエピソードに影響を与えているのが『ザ・メニュー』らしい。藤本タツキ先生のお気に入りらしいが、私は……という感じだった。
端的にいうと、オチなし映画なのである。そのため、『ザ・メニュー』はコメディ映画だと主張している人も見かけたが、それにしてはわりとシリアスな側面も出てくる。
ようは、どっちつかずで何がしたいのかよくわからない映画だというのが、私の感想だ。

今回の記事は、デンジ(とマキマ)が映画館で泣いたシーンに対し、自分なりの解釈を加えるのが目的。
また、デンジとマキマ(ひいてはタツキ先生も)B級映画好きであろうという想定に至った理由についても随所で述べる。

(余談だが、この記事を書くにはいろいろなめぐりあわせがあった。
そもそも私が『ザ・メニュー』を観たのは、2月頭。飛行機に乗る用事があったため、機内サービスで観た。このブログには印象深かった作品しか載せないつもりなので、御多分に漏れずお蔵入りになる予定だった。
しかし、先日某漫画家の方が『ザ・メニュー』のことをブログに載せており、ぽやぽや考えていた結果、『チェンソーマン』の例のシーンを思い出し、少し書くことにした。)


まず、デンジが泣いたシーンに関して、よくネットで見受けられるのが、「デンジは抱擁されたかった。映画に抱擁のシーンが出てきて、不意に泣いてしまった」という解釈。

正直この解釈はだいぶナンセンスだと思う。そもそも、泣いてしまった映画に至るまでに、すでに何本か映画を観ている。抱擁シーンなんか映画を観ていれば無数にあるのだから、その映画で泣く必然性がない。
それに、マキマが「十本に一本くらいしか面白い映画に出会えない」と言っていることから、観る映画のジャンルをあえて自分の好きそうなものに限っているというわけでもなさそうだ。
ここから、 抱擁シーンがある→泣く という構造があるわけではないことがわかる。

すると、やはりあのシーンは、デンジやマキマが「わかりにくい映画」を好む人物であることを示唆しているのだとわかる。「わかりにくい」ということはチャレンジングな題材に挑戦しているということでもあり、おそらくB級映画なのだろう。

なんとなく、『花束みたいな恋をした』を彷彿とさせる、下北沢か神保町にいそうな人種である。岩波ホールでやってる映画とか好きそう。あそこでやってたアレントの映画、全然好きじゃなかったな。。。

というのはさておき、ここで言いたいのは、デンジの特異性なのである。
私の周囲にも、熱量に関わらず漫画や映画が好きな人というのは一定数いるのだが、B級作品が好きな人というのはやはり、たくさんの作品に触れている人(ここではマキマみたいな)だと思う。というより、そうでなくてはB級映画の面白さに気が付かない。

なぜなら、B級映画というのは、A級映画ほどわかりやすくないからである。
物事はなんでもそうだが、業界には業界特有の「お作法」がある。「お作法」をアレンジしたり、「お作法」に新しい要素を加えることで、新しい作品になる。完全に独自の路線でなにか新しいものを作っても評価されないのは、そういった理由である。

私の属している業界のなかには、たとえばカントの『純粋理性批判』(という業界内でもトップクラスに難解とされている作品)を、博士号はおろか学部ですら哲学を専攻したことがない素人が完全に独自に読み解き、論文にしたり本にしたりすることがある。
もちろん、こういう著作物は全く評価されない。その理由は明確で、
①現在の日本の哲学界隈の「お作法」に従っていないから
そして
②カント自身が従っている「お作法」を理解していないから
である。「理性」と「悟性」の違いが判らない人がカントをむやみに語っても仕方がない。

ともかく、B級映画にはお作法が要求されるため、業界に入ってきたばかりの初心者が好むようなことはほとんどないと思われる。
にもかかわらず、これまで映画など一度も観たことがないであろうデンジが、B級映画にハマるというのは、単にB級映画がたまたま好きという趣味を持つ人なのだろう(?)

じゃあ、なぜデンジは「わかりにくい」B級映画が好きなのか。私の思考の範囲内で考えられる理由を列挙してみた。

・底辺生活を続けているうちに感性がスレてしまい、ありがちなやわらかいヒューマンドラマが受け付けなくなった
→複雑な関係の2人が抱擁するシーンで泣いたなら、そうかもしれない。ただ、人間と深くかかわってこなかった彼が、人間の機敏な心情を描くB級映画を理解できるだろうか。ちょっと無理な気がする。

・難解で芸術的なものに触れると、よくわからなくても美しくて泣いてしまう
→自分でもなぜ泣いているのかわかっていなかったようなので、この線は高いかな、と最初思ったが。よく考えたら、マキマとのデートまで、デンジはそもそも映画を観たことがなかったはず。そんな人が、どの映画が難解で、どの映画が単純なのかという判断を下せるように思えない。幼稚園生にとっては、『タイタニック』だってよくわからないだろうし。
というわけで、この案もいまいちかな。

・本当にたまたまその映画のそのシーンが好きだっただけ。B級映画だからといって、必ずしも好きというわけではない
→まあなんというか、『ラーメン発見伝』でハゲが闇落ちする原因を作った斉木クンみたいな感じ。舌バカだけどたまたま通好みのが好きだった。
というのは当然考えられなくはないけれど、『チェンソーマン』のなかであの映画のシーンってちょっと異質じゃない?そんな偶然のために、あのシーンをわざわざ盛り込むかな…

・『チェンソーマン』自体がB級映画を目指しているという観点からのメタ発言
→マンガってこういう表現がままありますよね。でもこういうのは必然性が薄い分、出来るだけ後回しにしたいかも。

・そもそも前提が間違っている。デンジ自身はB級映画好きではなかった。感性すらマキマに支配されているので、マキマの好きなB級映画で自動的に泣いちゃうようになっている
→これはマキマ最低なのであまり採用したくない、悲しいから。でも、デンジのあまり何も考えていないあの感じ、サブカルと反りが合わなそう。サブカル好きって自己主張が強くて強くて強くてたまらないようなやつしかいない気がするから。私のことか。
でも、この案を超えるものを、正直思いつくことができない…

というわけで、私個人としては、
デンジはなぜ映画で泣いたのか
=デンジはなぜB級映画が好きなのか
→デンジはすでにマキマに精神的にのっとられているから。
マキマは映画をよく見る人であり、そこからB級映画好きであることが推測される。そうした影響をかなり強く受けてしまったが故に、人間とろくに関わったことがない/映画を全く観たことがないデンジでも、B級映画が好きになった(好きにさせられた)。
という結論で着地した。
悲しいね。

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