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試作43

最近体験した不思議な感覚の話。

気分がすぐれずぼんやりとしたまま、昼前に布団からはい出した休日。家族の声掛けに応えて買い物に出ようとして、車内での読書用にと『眼の目』という雑誌を手に取り助手席に座った。

ラジオの音を絞り、発車後しばらくして表紙をめくる。目当てのテーマのページへ移動し、表紙を飾った器の写真と解説を目で追う。家族との雑談や買い物の目的、夕食のオーダーなどを挟みながら紙面を読み進めていくうちに、景色の見え方が妙に明るいように感じてきた。

ピントの精度が上がったような、いわゆる「解像度」が高まったような感覚だ。見るもの一つ一つが精彩に映り、その「モノ」に対しての理解度が深まったかのような錯覚に陥った。
紙面の骨董品も、印刷された紙面よりもなお奥行があるように思える。器の端々の特徴や、背景の調度とのバランスを理解したかのようにも思えてきた。
買い物を続け、帰宅してからもその感覚は続いた。スーパーの野菜や陳列棚の色彩、自宅の外観、細々と集めている盆栽や古道具達が、数十倍の魅力でもって感じられた。この時の感覚の変化、視界や意識のフィルターが一枚外れて明瞭になったような変化。これが物の「美」に気づける準備ができたというべきか。ものすごい高揚感を感じたことを覚えている。

しばらくしてこの高揚感は収まったが、同様の美術に関する本を読んだり、あるいは実物を愛でたり意識を美を感じる方向へ向けたときには同じくフィルターが外れ明瞭で純粋な物の輪郭が見えてくるような感覚を繰り返すようになった。他の趣味への興味が潜まり、この一点についての視野が開け、紙面をみれば飲み込むように文章が入ってくるような気がする。
いわゆる「ハイ」な状態なのだろうか。それを体感したことで、次にそれを意図的に起こすことに興味をもちはじめた。集中できている状態に意識を持っていくことができるなら、そして切替をある程度自由に行えるなら、複数の趣味でも同様に切り替えられる、スイッチがつくれるのなら。

今はそう思いながら、なるべく視野の中に趣味のものを置くようにしている。職場でも自宅でも、なるべく触れ続けることを意識するように。

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