満たされない つぎの味は?って
わたしは終わりたい。
この、やけに わたしのことを追い回す
もやもやの正体とお別れがしたい。
終わりたいという願望は、しにたいだとかそういうのじゃない。
嫌いと好きと、その間に興味が無いがあるみたいに
関心がないことがいちばん健全なんだと思う。
わたしは死どころかあの世のことばかり考えている。
俗世でのあれこれなんかは、自分の頭を悩ませるばかりで、わたしの決して多くない考える余地を奪ってしまうから、だんだんと気持ちを不健康にさせる。
この世には余白が足りない気がしている。
いつも幼少期のことが、やっぱりわたしを形作っているんだなと再認識するのだけれど
今回もやはり過去のおはなしになる。
わたしにとって1番合わないとお互い感じる性格の、
ひとつしか答えがない、それでそれ以外は間違いや悪みたいに人に圧をかけるタイプの人間とは、なるべく関わらないようにして生きてきた。
そういうひとには、わたしにもっとも足りないプライドというものが備わっているのだけれど。
とても羨ましいことである。
わたしは何かを否定することで、反対の何かを正当化してしまう気持ちがしたし、
何かを正当化することが、反対の何かを否定するような気がして
自分の正直に思っていることが、口に出してしまった途端に誰かへの悪意になる気がして
それがこわかった。
特に中学生の頃なんかは、特に女の子に至ってはグループでの活動を余儀なくされるところがある。
そしてその仲良しグループだって、実のところ破綻していて、グループの内の誰かいないひとがいる度に、そのひとの悪口やらなんやらを共有するのだ。
みんなその度に同調する。
そのひとを庇うひとは、誰もいない。
どうしてか、それなのに、みんなが揃っているときには、仲良しをやっている。
わたしは訳が分からなくなって、だれの悪口にも同調したくなかったし、だれの味方にもなりたくなかった。
けれども全ての時間をひとりでやり過ごせるほどの器用さも、気概もなかった。
それでも学校を休むことは許されなかったので、
腹痛や頭痛により遅刻を繰り返したりしていた。
周りのひとの言動が、壁のないままに、ダイレクトにわたしの心の内側に入ってきた。
テストは周りの緊張感だとかで、冷や汗が止まらなくなって、まともに座ってすらいられなくて、最後の時間まで解答出来たことがなかった。
かといって、全く救済がなかったわけではない。
限界な時には、おばあちゃんの家に逃げ込む日々が続いた。
おばあちゃんは何も言わずに、いつもお母さんに連絡を入れて、わたしが無事であることを知らせて夕方になると迎えに来るように、と言ってくれていた。
その間にやることとしては、
小さな頃おばあちゃんの隣で見てきたのと同じように、一緒にサスペンス劇場を見たり、わたしの為にと敷いてくれたお布団で眠ったり、ブルーベリージャムの塗られたトーストを一緒に食べるのだ。
特に学校を休んで逃亡するわたしについて、
何も責めることも聞くこともなかった。
踏み込まれるのがいちばんに怖いわたしは、
それで救われた。
ひとに言えない何かは全部、
表現することで毒抜きされる。
あるひとはカラオケで大声を出すことであったり、またあるひとは、友達と食べ放題に行くのが、ストレス発散なのかもしれないけれど。
外出は少しリスキーだ。
わたしはひとといると、思ってもいないことを思ってしまう自分を自覚させられることで、気持ちの消耗が激しくなる。
ひとといるから抱くのではなくて、
ひとといるから自覚させられるのだ。
楽しいとおもうのに、虚しいと思ったり。
好きと思うのに、好きじゃないとも思う。
でも一緒にいる相手は、楽しいことを楽しそうに、嬉しいことを嬉しそうにしてくれていて、
こんなこと思うべきじゃないのに、と苦しくなる。
ひとりのときには、ただ解を得るための思考なのだと納得させられるのに。
わたしが思うべきだと感じている、先に出てくる素直な感情の方は健全で、それを後から否定するように湧いてくる感情は不健全だ。
そして否定だと思っている方の感情は、穏やかでなく急激に湧いてくるからこそ、その衝動に気圧される。
相対する2人の自分の相手に疲れてしまった。
それで本当にどうでもよくなるか、どうにでもなれと投げやりな態度をとってみせるのだ。
実のところはずっと揺れているのに。
あるいは見ず知らずのひとの悪意に晒されることで、
蝕まれていく感覚になる。
そうして帰ってきたらバタンキューで、
何も手につかず すぐさま眠り込んでしまうのだ。
かといって ひとが嫌いな訳ではないし、
消耗の激しさから、遊びに行くのは知り合いではなく友人と呼べる人間に絞られていた。
ある日から、わたしは鈍感をやることにした。
鈍感をやれるだけの決意と、勇気とが、
この毎日を終わらせてくれると気づいて。
大切なひとのことは、わたしのことではない。
知っているひとのことは、わたしのことではない。
知らないひとのことは、わたしのことではない。
報道していることは、わたしのことではない。
当然のことなのかもしれないけれど、わたしにとっては初めて=に斜線を入れた、大事な決意だ。
それでも気を傷めることがない訳では無いけれど、
不意をつかれたように足元をぐらぐらとさせる、
沼みたいに沈む重たい泥に、胸まで浸かる前にシャットアウトできるようになった。
相対する2人の自分は、相変わらずせめぎ合いを続けているけれど。
それはわたしの、自分自身の性格なのだから仕方ない。
より信じられる方を選びとるまで。
考えるのを止める、ということが下手ゆえに。
これはそういう、ずっとの戦いだ。
満たされたいのに、満たされたくない。
幸せになりたいのに、幸せになりたくない。
ハッピーな方を常に望むのが、自分のためには良いと分かっているのに。
親しいひとも、それを願ってくれているのに。
満たされるのも幸せになるのも、こわい、と感じる。
表現が失われることは、わたしの死だと考えるから。
救いのはずなのに、救いを奪うことでもある。
でも満たされることで、表現できる幸せな何かも苦しい何かもあるのかもしれない。
そう思わせてくれるきっかけは、
きっとこれから先の誰かのことばにあるから。
今の私にしか出来ない表現をしていたい。
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