教室でクリパ
女子トイレから出てきた小走りの彼女とすれ違う。むわっと香水が薫った。あの子が鏡の中に入り込まんばかりの姿勢で化粧をしていたのは、私が廊下のダスターがけを始めた20分ほど前からだ。大きな黒い格子柄のトップス、黒のミニスカートにロングブーツ。目の周りは濃い色で縁取られていた。仕上げにプシュッとやったんだろうな。
彼女が向かった小講義室には10人近い学生が集まっていた。自習でもゼミでもない様子にちらっと目をやった時、長机の上にケンタッキーのパーティバーレルのバケツが見えた。同僚が、今週になってから回収するゴミの中にケーキの箱やお菓子の包装が増えたと言っていた。今日はクリスマスイブ。そうか、これから教室でクリパなのか。
重ねられたいくつもの甘さ。それを受け止めるグリーン香。飛び出すツンとしたヒヤシンス系の香り。苦手な匂いだ。でも、浮き立つような今日の彼女の雰囲気によく似合っていた。
ずっと前、友人が車に乗り込んだ途端、濃いジャスミンの香りが車内に充満したことがあった。曇りの予報から前ぶれもなく晴れ、急に気温が上がった秋の日。嫌いな香りだと認識しながら、香りと装いがあまりに調和していたので不快に思わなかった。ブルガリのジャスミンノワールだった。
ダスターとモップを器具から取り外すためにしゃがみこむと、突然、香りがぐっと濃くなった。揮発という言葉から、香りは水平〜上方向に拡散していくようなイメージがある。床から1メートル未満にこんなに溜まってるなんて初めての経験だ。もしかして脚にもプッシュしたのかな?
マスクをしていると、きついヒヤシンス香が少し遠くなる。漂うこの重たい甘さはムスクかバニラか。すれ違った時はフローラルブーケだと思ったけど、フローラル&フルーティかもしれない。疫病禍以前の那覇空港の免税売店で嗅いだシャネルのチャンスか、クリスチャンディオールのミスディオールのどちらかがこんな感じだった気がする。店の入り口でムエットをいかがですか?と言われると、たぶん苦手なやつだろうなと思いながらついもらってしまっていたのだ。最後はちょっとwoody。あぁチョコレートケーキが食べたくなってきた。私もクリスマスがしたい。
家でクリスマスっぽい小物の飾り付けをしなくなったのは、2018年からで今年で4回目になる。なんとなくやらなかった・疫病でそんな気分にならなかったを経て、やらないものとなったようだった。FMラジオのクリスマスソングや商業施設のBGM、飾りつけや関連商品でひと月以上見て聴いているはずなのに特に何も感じない、自分とは関係がないと思っている状態を「身体からクリスマスが消えた」と表現していた。なのに今、香りをきっかけにクリスマスをしたいという欲求が戻ってきている。「Christmas」に動詞の用法はないはずだが、言いたいことはわかる。
片付けのために女子トイレに入った。そこらじゅうフローラル&フルーティだった。いったいどんだけプッシュしたんだ?
バイトの帰りにドラッグストアでマスクとお屠蘇を、隣のスーパーで削りカツオと昆布と、迷ってうろうろした末にエクレアをひとつ買った。
車の中でも、家でユニフォームを脱ぐ時も、あの香りがついてきているのがわかった。クリスマス小物の入っている箱を探して、幸い一番上にあったサンタと雪だるまを机の上に飾った。そして、赤い実をつけたヒイラギのモチーフの皿にエクレアと薄切りにした洋梨を乗せたのをおやつにした。
教室のクリスマスパーティーは盛り上がったかな?月曜日も同じフロアの担当だ。
朝、教室の扉を開けたら、さすがにもうあの香りはしないだろう。
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