生きる意味なんて無いという思想

最近この思想に目覚めた気がする。本当の意味では「生きる意味なんてものは無い」という思想。別に悲観的なニュアンスではない。無いものは無いというプラスマイナス0、フラットな印象で捉えて欲しい。

とかく、生きる意味だの価値だのという言葉を使い過ぎ、悩み過ぎであると思った。思考動物に変化した人間に、この「生きる意味」とかいうナニカはたぶん無いのだと思ったのである。

そもそも「意味」なんて無い

思索の結果、手っ取り早い主張が出てきた。そもそも「意味なんてもの」自体が無い。

どういうことかというと、「『意味』等というもの自体が思考の産物である」ということだ。

意味
・言葉が示す内容、機能、用法のこと。

意味という概念を生み出したのは、あくまで人間の思考活動である。思考の中から意味が生まれているのである。だから、「なんのために生きるのか」等と言う疑問は「哲学でしかありえない」。意味がなんだの、あるだのないだのを決めるのは人間の思考であって、地球環境とかではない。この世の摂理だのは無関係である。あくまで、「人間の思考の中だけのお話」なのである。

生きる意味を考えることは無駄か

世界の摂理的なものを考えた時、「意味なんてものは無い、人間が勝手に決めているものだから」とした。これはつまり、「水素と酸素で水が出来るという事実と同じレベルでの正解は無い」といえるかと思う。絶対の正解が無いという感じか。では、「正解が無いのだから、生きる意味を考えるのは無駄か」と言えば、そんなことは無いと思う。

考え結論することは人格の完成に必要なこと

悩むことに意味があるという思想である。悩むことは、思考の重労働であると思う。悩んだ果てに導き出した結論は、紛れもなく「その人」の心と合体する。心の経験値となる。心の糧となる。教育の至上目的は「人格の完成を目指すこと」だとされる。人格とは独立した個人としての、その人の人間性であるという。心の成長は、独立した人間性の完成に寄与する。だから、悩むこと、考えること自体に意味があるのである。

生きる意味に絶対的な正解は無いが、それを考え、悩み、結論することには人間として非常に大きな意味がある。これを踏まえ、以下に結論を導く。

生きる意味は自分で決めて良いもの

敢えて、イイ感じの言葉を選んだ。生きる意味は自分で決めて良いと思うのである。少しきつく言うならば、「自分で決めるべきである」。なぜなら、それが「人格の完成」に繋がる以上、他人に委ねるべきではないからだ。勿論、他者の手を借りるのは悪いことではない。最終的に「決める」のが自分であればよい。

「他者を苦しめる」等と言う内容は、当然、社会的にも人道的にもいかがなものかと思う。しかし、心の問題である以上、自由である。他者が何と言おうと、外界がどう反応しようと、何もできない。決めるのは自由である。

その逆で、「生きる意味は、みんなを幸せにすることだ」という壮大な理想を持つことだって自由である。他者が何と言おうと、外界がどう反応しようと、それは間違いではないのである。絶対的な正解ではないかもしれないが、同時に完全に間違っているとは言えないのである。

だから、生きる意味は自分で自由に決めて良い。正解は無いかもしれないが、間違った答えだって無い。

最後に:提言したいこと

よく「将来何になりたいですか?」みたいなことを子どもに聞く。期待されている答えは、「なりたい職業」である。これを殊更に無意味だというつもりはないが、職業選択の幅が広がり、職業に「必要性」以外の意味、つまりやりがい等を求める(あるいは、認める)のであれば、「なんのために生きたいか」を考えるのは、それ以上に重要であると思う。

職業、即ち「仕事」は本来必要に迫られてやるものである。そうでない場合は「道楽」と表現される。つまり、「趣味」だ。まあ、それはともかく、「仕事は生きるために必要」だが、「生きることの目的は何か」がはっきりしていないと、「何故仕事をして生きていかなくてはいけないのか」と疑問を覚えてしまうのである。当然、「目的」がはっきりしている人は、仕事への意欲が高くなることが予想できる。

そして、私の主張としては「生きる意味はなんでもいい」「自分で好きに決めていい」である。超絶に立派な理想でもいいし、意味わからんくらいにマニアックでもいい。どちらにせよ、正解がないので他人には採点できない。自分の生きたい理由の為に、生きることを頑張る。これが多分、現代の理想的な生き方であると思う。

私は「死ぬと迷惑がかかるから、死ねない。生きるしかない」と考えたことがある。死ぬと迷惑がかかるのは本当のことである。お金を含めて、周囲の人には軽くない負担をかけてしまう。だから、現代の日本では「死にたくても死ねない」ということがありうる。

「死にたいなら、お金を稼いで負担を減らせばいいのでは?」等と言うのは「死にたい」と思ったことがない、恵まれた人間の考えることだと思う。「努力が足りないんだろ」等の意見は思慮が足りないどころでは無く、お話にならない。「絶望とはなにか」を知らない。知らないのは幸福である。自分とは違う「他者」への思いやりに欠ける「幸福な人」「恵まれた人」は、時に憎悪の対象になり得る。心を持つ人という生き物は、「孤独」に追い詰められた時に「死にたい」と絶望するからである。

だから、生きる意味を持って欲しい。生きる意味を持つことは、積極的に生きる活力になるだけでなく、心の救いになる。

どうでもいいことを最後に一つ。私の理想は「愛に生きる人」。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?