聖なる日の生と死 【後編】
さて昨日からの続きです。
翌日、
昨日の出来事がぼんやりと心に残りつつ、出かけようとして下に降りると、何やら奇っ怪な鳴き声がします。
もしやこれは・・・・
いた!
羊です、ここに繋げられてるという時点で、もうこれはお供え物です。
(と言ってもこれは去年の犠牲祭の写真)
つまりは・・・・屠殺!
補足ですが、イスラム圏には年に一回犠牲祭、という祝日があり、各家庭必ず一匹羊を用意して、神様に捧げる意味で解体する・・・・という儀式があります。(物凄い大雑把な説明)
で、今年は帰省していたので見れなかったのですが、去年は同じ場所に繋がれていて、ゲーゲー鳴く声が数日前から聞こえていたけれども、当日午後過ぎには聞こえなくなった・・・・という顛末が。
そういう出来事があったので、居る事に驚きはしませんでしたが、
そうか・・・そうなんだね。
あぁ・・・・お役目ご苦労さま・・・・・もうそんな風にしか言えない。
何も知らない羊の横を通り過ぎて、一旦はアパートを後にしましたが、それから3時間弱後に戻ってくると、入り口付近のテントの下で談笑する人々の姿が。
そしてアパートの入り口に入った私が目にしたものは・・・・・
階段下に広がる血の海!!!!!
ギャァァァァァ〜〜〜〜〜ッッッ!!!!!!!
実は昨年の犠牲祭の時、街中はどんなもんじゃろ?と思って、昼過ぎに出歩いてみたのですが、人もいなけりゃ羊を解体した様子もなく、血の塊すら見受けられなかったので、
『みんなキレイにやってんだな〜、流石に手慣れてるって事か』
と思い、その時の記憶があったので今回もキレイにやるのかな、と思っていたら、
まさかの惨殺後の現場に遭遇・・・・・・・・。
血痕の塊を見ることなど人生において一度もない、ヤワな現代人の私は面食らいましたが、ビビりすぎてもう笑うしかない有様。
しかも自分の部屋に帰ろうにも、階段の下は本当に殺戮が繰り広げられたかのような血の池の広がりっぷりで、跨ごうとしても結構な距離がある。
あれ・・・もしかして、手前に羊のお面が転がってない?
(怖すぎて確認はもはや不可能)
進もうにも進めん、そんな状況で目を覆いながらヒーヒー言って行きつ戻りつしてると、後ろから
“大丈夫だ、行きなよ!”
的な感じでチュニジア人青年に声をかけられる。
いやまぁ・・・行ったって食われるわけでも何でもないんだけど、心の準備というものが・・・・。
階段の辺りでは、ギャーギャー騒いでる私を見たご婦人達の一人(うっすらした記憶ではヒッピー女子?)が手を掴んでくれて、もう片方の手でなるべく血を見ない様に目を隠しつつして、ようやく血の海を乗り越えました。
半笑いなのに涙目になってて、あちらも心配そうに私の顔を見ておりましたが、毎年の事なので見慣れてる彼女たちは、外国人はヤワだねぇ・・・と呆れたことと思います。
今回の事で、羊を供物にするのは特別な儀式の時にはありがちな事、というのがわかりましたが、何と言うか・・・・一人の人間の死があると、同じ様に生を絶たれる生き物がある、というのに衝撃を受けました。
とは言えそれは、イスラム教って残虐!!野蛮!!という様な攻撃的な感情ではなく、それよりも、当たり前の様に日々口にしてるけど、こうやって生きている命を頂いているのか・・・・という事実の方に意識が向き、わかっていたつもりの事を改めて可視化させられたから、感じた衝撃なのだろうと思います。
おばあさんの死に伴い、羊さんも旅立ってしまいましたが、その日の葬儀の続きはどことなく宴会ムードが漂っていて和やかな感じだったので、その死も無駄ではなかったのだろうと思います。
たった2日間で、色々考えさせられる出来事に遭遇しましたが、これも未知の異教の国に住んでいる醍醐味なのかもしれません。
おかげで旅行モードが一気に吹き飛びはしましたが。
謹んで羊さんのご冥福もお祈りいたします。
今回屠られた羊とは違いますが、
まぁどっちにしたってその後の運命は同じ・・・。
今見返すといたいけな瞳を向けていて胸が痛む。
この羊さんにも合掌。
あとこの写真撮ったのと同じ日にこんな事もありました。
このせい辺りから私のチュニジア人嫌いが加速する。
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