【エッセイ】多様性では個別性を包摂できない

残念なことに気づいてはくれなかった。親身に話しを聞いてくれたし、励ましの言葉をかけてもくれた。
だから油断してしまった。信じてしまったら裏切られてしまうことを忘れてしまった。
笑顔なんて嘘だし、優しさは偽善だし。誰もが上手に取り繕う大人の言葉に戸惑って、うっかり本音を洩らした。後悔しても遅いのだが。
いじめも無視も馴れてるけれど社会人になれば少しは変わると期待してたのに本当に何もかもがズレていて被害の席は埋まっていた。

ひとつだけ手に入れた。黙っていると悪人にされる。
非難の声は巨大な汚物となり臓器の機能を鈍麻させる。沈黙して穴埋めは本音を引き出す戦略。思いやりも笑顔も表皮に過ぎない。ただし社交を継続するには本音だけでは意味がない。社会が回るには個人間のやり取りとは別の仕掛けが必要になる。


公的発言と生活に乖離があるのは当然のことである。しかし反撃に備えて、巧妙に抜け道を作っておくのを「賢い人」の狡賢さと指摘するのは読者として当然の「権利」である。振り返れば思想的布石は打ってあったことに気づく。
例えば吉本隆明が提示した共同幻想と個人幻想に加えた「対幻想」への高評価である。そして江藤淳の『成熟と喪失』に対しても対幻想を鍵語として評価をしている。
多数派と少数派という概念がある限り「多様性」は歪な形で実現することしかできない。