【感想】坂口安吾と「知性」(風博士の哄笑を求めて)

「堕ちよ。生きろ」と坂口安吾が叱咤激励したのは何故だろうか。

敗戦後の昭和21年4月発行の雑誌に『堕落論』は掲載された。

『堕落論』の要諦は「堕ちよ」にあるのではなく、人間は「堕ちきる」ことなど出来ないだろうという安吾からの挑発にある。つまり煽りだ。

安吾は文学史的には太宰治や織田作之助らと共に「無頼派」と称されている。
そのため「堕落」と「無頼」とが混同されて、守旧的な常識の殻を抜け出して「自由」に生きることを慫慂しているかのように誤解されてしまいがちである。

しかし、安吾が示す「堕落」も「文学のふるさと」も知性を経由しないと辿り着けない場所にある。

「無頼」の反動として「知性」を見いだしたわけではなく、そもそも安吾は「無頼」とは無関係である。

安吾が「新戯作派」を自認していることも忘れてはならない。
安吾の知性の形態は極めて「批評的」な思考であり、同時代的には小林秀雄だけが比肩可能な「批評的」観察眼を有している。
安吾と小林では両極の資質だと思うのが常識的だし、実際に誌上で安吾は小林を批判している。対談もすれ違いもいいところだ。最後に「福田恆存は偉い」だけは一致しているのが妙に合点がいって嬉しくなる。

晩年の安吾が「荒れていた」のは知られているが酒や薬物への依存からくる荒みを「無頼」という言葉でラッピングして安吾を世俗を超えた乱暴者として語りたくなる欲望は私にはある。

それ故に必ずしも否定したくはないのだが、「無頼派」という側面だけでは安吾の全体像を掴めないし、
読み方を狭くしてしまうのも事実で安吾の作品には「喜怒哀楽」が整っているのでそれらの感情を統合する役割として「知性」が君臨している必要がある。

そして安吾が「FARCE」から出発していることも見逃せない。「FARCE」こそは「知性」による制御が必要なのだ。

坂口安吾を深掘りするには『堕落論』に至るまでの仕事に刮目するべきである。