【感想文】それでもやっぱり気になる著書を巡る感想文

「感想」といえば小林秀雄のベルグソン論を想起する。連載は完結せずに、小林は本居宣長を畢竟の代表作として「保守」の最後の砦となる。なってしまった。

「無敵の宣長」なのか「無敵の小林」なのかは知らないがそんなことはどうでもよい。そう思う。

最先端が日常的に更新されるご時世では、最先端がガラガラヘビの尻尾のようにから騒ぎが繰り広げられるだけの最後尾であっても驚く人はいやしない。序列が意味をなさない情報空間を隙間だらけのパッチワークが庇うように汗を流す。

難しげな歯切れの良さだけが「売り」の詩人あがりの物書きが「食える批評の先駆者」と称揚されたのも文学史(日本語版)の年表に記されるだけの希薄な存在に移行した。
そう、柄谷行人の「近代文学の終焉」は個別の事象からの方便だと告白されたところで正鵠を射ていれば通説化してしまう。

簡潔明瞭な文章を「文章」とキメ打ちすれば文学は文章の範疇からは除外される。
小説と文芸批評は第二芸術(俳句)どころか芸術の仲間でもなさそうだ。

昔日、文士と呼称されていることからも「作品」ではなく作者の個性が小説をジャンル規定していたことが容易にわかる。
無頼派は恰好な標本なのだ。無頼なのは作品ではなく作者の方だろう。小説を読んでいない坂口安吾ファンはいそうだし、いても当然だし、なんの問題もない。

人工知能は知能ではないと抗弁するのではなく人間の知能が「なんかうまくいく」だったことが証明された。それで良いのではないか。

言語の土台は聴覚なのか、視覚なのか。
読み書きは聴覚が優位に働く分野なのだが近代以降は視覚が支配権を獲得した。
今後は言語(記号)活動も視覚に取り込まれていくだろう。
というかSNSでは既に言語活動も視覚に吸収されてしまっている。
言語活動が視覚と聴覚の角逐の領域になっているのが現状であるが、勝敗の行方は既に決している。

正確には「近代文学の終焉」ではなく「文学の終焉」なのである。
違和感の出処は言語が時間の経緯に規定されていることを視覚優位のメディアによって忘却されたことに思い至らない者らの鈍感力である。

鈍感力は処世に必要不可欠だが違和感は日常に馴致されて別の尺度で優劣が決せられてしまうことに回収されてしまう。
一言居士のユニゾンは食欲を減退させる。