見出し画像

共同体と「無我」 

仏教の「無我」の考え方を、共同体と実存の関係からまとめてみたいと思います。「人間をやめる」うえで、無我は非常に重要な考え方だと思います。字面的にも、「無我(我が無い)」と「人間をやめる」は、同じ方向を向いている感覚があります。

では本題に入りますが、そもそも共同体とは何でしょうか。

共同体の意味をwikipediaから拝借すると、「同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり(社会)のこと」とあります。およそ7世紀までの人間の共同体は、利害を共にする中で、互いに「役割」を持って助け合う、謂わば共助関係があったというのが通説のようです。

共同体を存続させていくためには、皆で協力しあい、各々に課せられた役割を果たし、共同体に貢献する。この仕組みは、個々の存在意義(実存の根拠)を担保します。なぜなら、所属者は共同体内で「器官」として、他者から必要とされて生きることになり、その関係性において自分の存在が強く規定されるからです。

共同体の強度(自己と周囲の関係性の強度、共同体秩序の強度、統率)が強くなればなるほど、存在意義は強くなりますが、自我は弱くなります。自我とは、共同体と区別された自己(実存)です。共同体は、自我が強まることを許しません。皆で役割分担をして、秩序の中で生活をしているのに、個人が意思決定し、役割を放棄されては困ってしまいます。個々の自我が強まることは、共同体の存続を危ういものにします。

この共同体は、貨幣の導入、近代化、経済的な成長によって、時代とともに徐々に解体・形骸化していったようです。社会学者の宮台真司教授はこれを「空洞化」と表現しています。

確かに貨幣のような虚構の価値が介在すると、共同体内の共助関係は、単なる「売主」「買主」の関係に代替可能となり、当初の秩序は形を変えるでしょう。それは、役割や秩序で結ばれた昔ながらの共同体ではなく、単なる売買においての「売買主体」と「物(サービス)」の関係になります。

そのように共同体が徐々に解体し、個人が孤立化していくと、顕在化するのは「自我」です。共同体の「器官」として生きることができなくなると、自己の存在意義が担保されなくなり、今まで影を潜めていた自我が強くなります。この社会(世界)において「自分は何者で、何のために生きるのだろう。生きることには意味があるのだろうか」と、自己の存在意義を不安に思い、それを求めずにはいられなくなります。

他者からの承認に異常に執着したり、ネット上の架空の共同体に依存してしまったりするのは、ここまで記述してきた「共同体空洞化」に一因があるのではないでしょうか。自己の存在意義を担保したくて、役割を与えてくれる他者、共同体を求める行為です。

社会の成長が昔ながらの共同体を解体し、個々の存在意義をリセットすることで実存を剥き出しにした結果、「他者から規定されなければ不安に陥り、苦悩する」という人間の弱点を明るみにしました。

ここまでの内容で明らかにしたいのは、今も昔も変わらず「自己を規定するのは自己ではなく、他者である」ということです。自己は「自己からの自己」と「他者からの自己」の認識が一致してはじめて自己の在り方が決まります。ということは、規定権限は実質、他者にあります。

「私は(他者にとって)必要な人間だ!」と自らが表明したとしても、他者から「あなたは必要な人間だ」という認識・規定がなければ、必要な人間になりえません。「自分の役割」「自分の在り方」「自分の存在意義」という問いに対しての答えは、必ず常に他者、外部に要求されるのです。

すると、自己(我)を自己たらしめるものは、自己側には無いということになります。他者によって自己が規定されるのであれば、自己は不変不滅な存在ではありません。(=無常)これは仏教的「無我」と表現できるのではないでしょうか。

自己の「役割」「存在意義」それに類するものに執着し求めるのは非常に「人間らしい」行為ですが、仏教は虚構であると考えます。「そんな虚構に執着すれば、当然無い物ねだりになるので、苦悩するでしょう。」仏陀釈迦の教えに帰結します。現代に生きる私たちは今一度、自らを規定している他者、共同体を見直し、虚構への執着を滅する必要があるのではないでしょうか。

無常無我を正しく認識できれば、あらゆる虚構への執着を無くし、自分自身へも執着せず、本当の安息を手に入れることができると私は信じています。だからこそ、「人間らしい」行為を常に意識して、厭い離れ続けなければなりません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?