なぜ、人は人をいじめるのか?

昨日、『ミステリと言う勿れ』というドラマを観ていると、主人公の久能くんがこんなことを言っていた。
「どうしていじめられている側が逃げなきゃならないんでしょう。」「いじめている側が病んでる。」と。

なるほど。いじめを精神論でなんとかしようと徒労している人たちより、よほど進歩した考えだと感心した。

でも、僕としては、「こういう考えをみんながするべき。」という久能くんの意見には賛同しかねる。

というのも、それは、一つに心理学に原因している。

心理学の研究によると、人間という生き物は、利益を得ている人間を模倣するようだ。

模倣というのは、人間がかくも進歩することを許した学習プロセスである。
人間は、人を模倣することで学び、自分の行動を定め、生きていく。

より利益を得ている人を模倣するという人間の自然を、いじめに当てはめてみる。
いじめられている側は、精神的、身体的苦痛を味わっているのに、それに対し、いじめている側は、快楽をむさぼっている。
いじめにおいて、より利益を得ているのは、あきらかに、いじめられている側ではなく、いじめている側なのだから、自分もいじめをする側を選ぶというのは、人間にとってしごく自然なことなのだ。

だから、いじめをするという人間の本性にしたがっている人たちを「病んでいる」とみなすのは、違和感がある。

心理学以外の観点からも、いじめは、ある種自然な行いだということを話してみたい。

人間は、みんな優越感が欲しい。
というのも、優越感は、存在価値に直結している。
自分が人より優れている部分は、自分が人から必要とされる理由になり、自分が存在すべき価値になる。

とはいえ人間は、そう簡単には、自分の中に人より優れている点というのを発見できない。
だから、自分より下をつくる。
下がいれば、下の人間よりも、自分は優れていると、自分に納得させることができる。

この「下をつくる」ということが、まさに、いじめの内実である。

人は、その本性から優越感を求め、優越感を得るために、自分より下の人間をつくる。
いじめというのは、その下をつくる行為の一例で、人間の自然に従った行為である。

こんなふうに、人が人をいじめてしまうのは、きっと、「病んでいる」から、ではない。

と、ここで、誤解を恐れて付言しておきたい。
いじめをすることは、人間にとって、自然なことだ、ということを2つの仕方で話してみたんだけど、決して、僕はいじめを擁護したいわけではない。
いじめは、このように、ある意味本能的であるとはいえ、本能を自分自身でコントロールできないのは、非理性的で、幼稚だと言わざるを得ない。
自分で自分の価値を自認できないというのも、また幼稚だ。

だけど、いじめている人間は、その本性にしたがっているという点で、ある意味健康だ。
そんなある意味健康な人たちを「病んでいる」というのは、やっぱり、どこかおかしい気がしてしまう。

いじめをした経験があるという人は、世に大勢いるだろう。
その多勢を「病んでいる」ということにしてしまうと、世の中の多くの人が「病んでいる」ことになる。
世の中が「病んでいる」と認めざるを得なくなる。

仮にいじめの経験がある人、あるいは、それを看過していた人が、世に5%ほどいるとしよう。
世の中の5%もの人が病んでいたら、たぶん、その世の中は、まもなくして崩壊するだろう。

僕が言っていることは、論理を乱雑に使った暴論なのかもしれない。
なので、間違いがあれば、ご批判くださると幸いです。
特に、心理学については、まったく浅学なので、訂正してもらえると、誠にありがたいです。

あ。

あけましておめでとうございます。
そう言えば、今年一本目の投稿です。
遅ればせながらですが、本年もどうぞよろしくお願いします。

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