俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。

俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心はなごんでくる。
                          (『桜の樹の下には』梶井基次郎)

自我の過去の集積に没んだ感情を刳り出されたような情趣を覚えさせられる、
故に、共感せざるを得ない、
こういう文章に出会ったのは久しぶりのことだ。

やはり、こうした長い年月と経験から徐々に醸成される感情を、
僅かニ文の裡に表現する作家という仕事人には感嘆させられる。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」
という冒頭の有名な文言の動的な力もさることながら、
僕の惹かれたのは、
以降尾を引くように感じられる、
文脈のメタにある、
作家の憂愁に抱擁されたやるせなさ、
そういう意識に沈積した静的な力であった。

梶井氏の生い立ちなどはよく知らぬが、
この人の感性構造は、自分のそれに親しいものを感じる。
(尤も、彼の方が圧倒的に機微に聡く、
 才能にも秀でているだろうが。)

全く異なる時代、
全く異なる景色を見て生きた人間が、
自分と同じように世界を眺めていたことは、
甚だ不思議でもあり、魅惑的なことでもある。

そこには、
連綿と続く私感なり、
人間に楔付けられた感性等があるのかもしれないが、
それにしても、
自分の知覚し得ぬ世界に共感を抱く感傷というのは、
何とも源泉の知れぬ潤いなるもののあるものである。

正に、この小説が僕の憂鬱を完成させ、
故に、なごやかな気分に抱かれいるのかもしれない。

【日日是考日 2020/11/17 #035

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