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「友だちの真似」の何もわるくない

なにか「やりたいこと、習いごと」があった時に、
「友だちの真似をしているだけだから、
(本当は、あなたがやりたいわけではないから)、ダメ」。

こんなことを、言われたら、
こんなことを、思っていたら、
子どもも、親も、どうやって「生きる気力」を持てばいいのだろうかと
疑問に思いますし、元気でいることがとても難しいと思います。

わたしは、母の真似をしていることが沢山あるし、
「いいな」と思った人の、「いいな」と思ったところを真似ています。

友だちの真似をして「流されること」「合わせすぎること」を
心配することはとても多いことのように感じますが、
 
「みんなが、しているから」
「みんながそうだから」と
無理をして、我慢をして、
「やりたくない」ことを「やる」のではなくて、

「やりたいこと」を「やる」のは、いいと思うのです。

どこかに「所属」をしていたい欲求は誰にでもあるものだし、
「なにをやるか」よりも
「誰とやるか」の方が、むしろ大事で、

一緒にいたい友だちがいるから楽しめて続けられたり、
がんばる力が引き出されたりするのですから

「真似したい!」と思える人に囲まれていたとしたら、
それは、とてもしあわせなことだと思います。

「偉人伝」などに触れて、やる気になったりすることと同じで、
「やる気が出る」「がんばりたいと思える」その気もちに
とても価値があるのだし、
わたしなんかは同じことだと思ったりしちゃいます。

「友達の真似」「親の真似」「先生の真似」「芸能人の真似」・・
惹かれている人の真似をすることから始まる「自分」はあると思うし、
真似たことで「ちがう」と感じたり、「決まる」こともありますしね。

「惹かれる人、憧れる人」と「自分」とのギャップを
受けいれて、自分の現在地から歩み始める道のりは
すべてが「自分」。

「惹かれる人、憧れる人」の「どんなところ」に反応しているのか。

その反応している「ポイント」には
まちがいなく「自分」が現れていますし、

自分の中にはいろんな資質があって、
相手によって、場所によって、
場面によって引き出される資質があると思うので、
自分がどんな人なのかは一概にいえることではないです。

居心地のいい友だちといる時の、いい感じの自分がいて、
「そんな自分でいる時間を増やしたい」
「そんな自分でやれることを増やしたい」
という願いを否定された、と感じたら
それはとても残念なことだと思います。

子どもがなにかを「やりたい」と言い出した時。

子どもが、どんな自分を欲しているのか。
子どもがみているものは、なんなのか。

言葉にはなっていないものが、たくさんあるし、
子ども自身もわからないことがたくさんあるし、
説明もできないので、
動機を否定も肯定もされずに育ったことは、
わたしは、とてもよかったです。

感じていることの言語化や具体化の手伝いをすること。
そうしたことで、子ども自身が自分に気づく機会をつくっていきます。

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