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「ほんのちょっとのきっかけ」が埋める空白

今日も、Eさんが、水聴庵の前を歩いていく。
下を向いて、ゆっくり、とぼとぼと。
たぶん、数時間後に、また戻ってくるはずだ。

「水聴庵」とは、私たちが修復している家の名前。
笹原という集落は、どこにいても、水(田んぼや畑に水を運ぶ農業用水)の流れる音が聴こえてくる。
だから、水を聴く家、という意味で屋号をつけたのだ。
※ 上の写真の蔵は、笹原の風景ではありますが、水聴庵ではありません……。

Hさんは、水聴庵の、裏の斜向いの家に住んでいて、私たちの作業に興味津々。
だけど、今日のことは明日には忘れてしまう。
そのことを気にしてなのかどうなのかはわからないけれど、家からほとんど出てこない。
でも、庭からでも私たちのことは見えるから、毎日、私たちのことが新鮮で、興味津々なのだ。
そんなHさんを見ると、映画『50回目のファーストキス』を思い出す。
私は、アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが主演したものしか観ていないけれど……。

Eさんは、聞いた話によると、何があったのか、ある時から毎日、延々と出歩くようになってしまったのだそう。
私も、車を運転していて、「えっ、こんなところまで来るの?」みたいな場所ですれ違ったことがある。おそらく、1日5万歩ぐらいは軽く歩いているのではないだろうか。
水聴庵の前を通れば「こんにちは」と声をかけてみるものの、特に反応もなく、私たちも「あぁ、この人は何らかの理由で、ぼう然としてしまったままなんだ」と認識するようになっていた。

「Hさん、せっかくだからお茶でも飲んでいきません?」
たまに家を出て、水聴庵のあたりまで出てくる彼女に絢子が声をかける。
最初のうちはためらっていたHさんも、何度も声掛けを重ねた結果、最近は軒先までやってきてくれるようになった。
「生まれも育ちも笹原」というHさんは、まるでこの集落の生き字引のよう。昨日のことは忘れてしまうけれど、むかしのことは何でも知っていて、私たちに教えてくれる。
なんと一時期、この家(水聴庵)に住んでいたことがあったとか(この話にはビックリ! そのあたりの事情は、今後機会があったらもっと聞いてみたいと思う)、この家に最後まで住み続けた方は、ともすると怖いぐらいの気丈な女性だったこと、裏の家は、彼女が小学生だったころは、学校の先生たちの宿舎で、放課後に先生のところに遊びに行くのが大好きだったこと、エトセトラエトセトラ。

話を聞いているうちに、「そろそろEさんが一周して戻ってくるころかな」と思った。さっきも通ったのだ。
何でも知っているHさんは、もちろんEさんとも顔見知り……なのだろうか?
そんなことを考えていたら、Eさんがやってきた。
下を向いて、ゆっくり、とぼとぼと。

Eさんの姿を認めたHさんは、「あら、Eさんだわ! 元気なのかしら」と、立ち上がって家の前まで出ていった。
「Eさん、私のことわかる? 〇〇の娘のHよ!」と話しかける。
わけもなく緊張してしまう私たち(というか私……)。
すると、最初は私たちがあいさつするときと同じように無反応だったEさんも、ひとたび彼女がHさんだとわかると、パッと花が咲くように笑顔になったのだ。
「あらぁ、元気!?」

その後は、ひたすら水聴庵の前で、水の音をBGMに立ち話。むかしの話は尽きることがない。
聞いていると、EさんのほうがHさんより先輩で、どうやらEさんのご主人とHさんのお母さんが同僚だったのか、一緒に仕事をしていたようだ。
とにかく話は尽きなかった。

ふたりは、どのぐらい会っていなかったのだろう。
お互いにすぐ近くにいながら、「ほんのちょっとのきっかけ」がなくて、出会うことなく過ぎていった時間。
その空白を埋めるようなおしゃべりをして、ふたりは別れたけれど、水聴庵の役割のひとつは、「ほんのちょっとのきっかけ」をつくることなのかもしれない。そう思った。

Eさんは、ぼう然としているように見えて、とても明晰。このようなことがあるたびに、人がもつ無限の可能性に敬意を抱くと同時に、ともすると人や物事をうわべだけで判断しようとしてしまう自分を恥じる。

ある日、茅野市湖東の笹原という小さな集落にある水聴庵という小さな家で、起こったこと。

Eさんは、次は水聴庵の前で、顔を上げて、少しばかり立ち止まったりしてくれるだろうか。
Hさんは、Eさんとのおしゃべりを、憶えていてくれるだろうか。
いや、もし忘れてしまったとしても、また、新鮮な気持ちで、楽しくおしゃべりを始めるのも、悪くない。
「私のことわかる?」「あらぁ、元気!?」と。

いつか、水聴庵で、おふたりでお茶を飲んで、むかし話に花を咲かせてくれたら、それは、とてもとてもうれしいこと。

水は今日も、流れ続ける。

(隆一)

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