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敗金主義者は愛と
今回はマネーとは直接結びつかないどうでもいい「愛について」の話である。当然愛と敗金主義とも関係ないからタイトルが既に間違っているのであるが、今現在敗金主義者は私1人であるからその一点において結びついていると言えるだけなので、マネーに興味がなくてどうしようもなく時間がある人はしかたないという気持ちで読んでもらえたら幸いである。
さて、皆さんは「愛」について考えたことがあるだろうか?
大体辞書とかネットとか調べると色々な意味が書かれていて、そのせいですごく捉え所のない概念であると感じるかもしれない。だいたい目で見えるものでもなさそうだし、短い言葉で定義できないものである、と考えているかもしれない。むしろ、多くの人は言葉にできないことにこそ愛を感じるだろう。定義などされたらむしろ反発を抱くだろうし、そんな個人的な事を誰かからとやかく言われたくないと憤慨するかもしれない。個人の感情から発露されるものは概ねその傾向があるし、そのことについて定義など頭ごなしにされて気分がいい人はいない。曖昧になっているからこそ穏やかな気分でいられるものも多いだろうし、明確になることで価値がなくなってしまうことだってある。
だがしかし、ここではそれをあえてしたい。
なぜかといえば、それがこの時代になって必要であると感じるからである。愛の定義も理解されないまま生きては長い目で見て損であると私は思うのである。物事の価値を近視眼的に図る現在、この四半期決算型資本主義拝金経済圏では見えないものが、定義することで明確になり、それは未来に利益をもたらすと、敗金主義者は考えているということなのだ。
まあ、未来を見据える輩はそれ声だかに叫ぶにつれて偉そうであるからして、総じて上から目線になりがちだ(評論家とか)。しかし、私は敗金主義者であるからしてその存在自体がどう考えても泡沫であるわけで、取るに足らない存在であるのだから、お金もないし、まあ、言いたい事を言っても差し支えないだろうという事を心して、あえて愛を定義してみたと思う。
さあ、長々と前置きが続いたが、本題はごく短い。
愛=時間
それだけである。これを「愛=時間」論という。
これの説明は次回に持ち越すとして、これを目にした方はごく少しでもいいからそのことについて考えてもらいたい。この公式じみた論が一体何を意味するのかを。もしかしたら、新たな一歩になるかもしれない。
今回はここまで。
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