わたしにいちばん似合う色は

おとこというのは、おんなというのは、人間よりもえらい生き物ですか、皮膚に、体内に、細胞に問うたびに、思い出すのは甲高い声のあの子、似ても似つかない喉のかたち。
(散文 『朝まではふたりアルト のデュエット』より)

“おんな”であることを求められるのは怖いのに、“おんな”でいることが限りなく好きなのは、矛盾しているのかしら、と、別におんなを強要されたわけでもないのに思う。
自分の身体に時々違和感を感じることがあって、けれど、男性の身体になりたいわけではないし、単純に細くないので華奢なひとに憧れる価値観なだけかもしれない。“女の子用”につくられた服を着たときに、外からわかる曲線や、胸の膨らみが、どうしても嫌になるときがあるとか、下着姿や水着姿が嫌だとか、それくらいの話。
お気に入りの服を着ていれば忘れるくらいの。

おとことかおんなとか、それ以前にひとで、それ以前にわたしはわたしであなたはあなただよって、そう思っているし思っていたいのに、たぶん自分の中の女性性がとんでもなく強くて、激しくて、それに負けてしまいそうになることがあって、それがどうしようもなく哀しいのだ。

わたしは確かに身体的にも精神的にも女だけれど、女としてひとにあげられるものがあるのかと言われれば微妙で、いやみんなそうなんだろうけどね、あげるとかもらうとか、そんなんじゃないんだろうけど、自分が“おんな”でいることと、他人に“おんな”だと認識されることには大きな隔たりがあるような気がしてしまう。
うつくしくなりたいと思って着飾ること、生き方を考えることと、女の子として慈しまれたいとか、女の人としてだれかに愛されてみたいとか、そんなのってみんなみんな別の話で、まとめて考えられたくないのよって、たぶん、わがままな感覚の話で、理解してねって言えない。だって、わたしは他人の感覚を理解できているかといわれたら絶対にそうではないし、そんなこと言いながら、女の人というだけでその才能や美しさや愛らしさにとんでもなく嫉妬したりしてしまう。
そういうとこが、わりとつまんないなぁと思う。妬むなら全人類妬みたいよね。自分からフィールド、狭めんなよって。

セクシャリティもジェンダーもみんな様々で、どうしたって個人を見ていたいけれど、例えば誰かと愛し合えたとして、わたしは異性愛者だし、きっとその人も異性愛者で、でもその人じゃなきゃいけない理由は確かにあって。じゃあ性別が違ったら愛を誓えないことで、その気持ちはニセモノでしょう、なんて思わないだろうし。
わたしがおんなであること、あなたがおとこであること、あの子がどちらにもなりたくないこと、迷っていること、全部、その人を構成する大事な要素のいっこでしかないよねって、だから、そういう詩を書いたりします。
わたしはおんなで、うつくしくなりたくて、女の子でありたくて、でもつまんない消費の仕方されんのなんかごめんだよって、そんな、そんな感じ。
みんなもそんな感じですか。消費されて安心するひともきっといるだろうから、そうやって、自分が生きていきやすいかたちを選んでほしいなぁと勝手に祈っています。

冒頭に上げた散文の、あの文章のつづき、こうやって終わるんです。

ほら、ぼくらうつくしいハーモニーで、別々の正解をうたえるだろう。

あなたとわたし、ぜんぜん違う声だから。算数じゃないし、正解も、いっこじゃないから。




#雑記 #エッセイ #ジェンダー

生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。