「小さな詩」

 梅春。名古屋。午後一時。陽気はまだ遠かった。
 母親と手を繋いでいた、Shirley Templeの赤いAラインのコートを着るあかりは、空いている左手で爪を立て、荒れた頬を無造作に掻いた。その様が視界に入った母親は、すぐ横にバス停に行列ができていて、また、少なくない人が往来する道の真ん中であるにも関わらず、あかりの手首を乱暴に掴んで叱責した。
「やめなさい!」
 途端、硬直したあかりの顔に、一瞬にして涙が溢れ出した。泣いた。泣き喚いた。母親はさらに語気を荒らげた。
「泣かない! 泣いてもどうにもならないでしょう!」
 あかりは手を、首をジタバタ動かしながら、少し黒色が褪せ、雨上がりの泥で汚れたアスファルトの地面に座り込んでしまった。涙で瞳は潤んだまま。
 一部始終を少し後ろから見ていたかなでは、いたたまれなくなって、苦しくって、自分まで泣きたくなった。
 あかりはアトピー性皮膚炎を患っていた。特に酷いのが顔。市販の薬を毎日塗ってはいるけれども、猿のようにカサカサで赤い。あかりはもうすぐ四歳。必然、痒みに耐えられないから掻いてしまう。症状は治まることを知らなかった。
 かなではそっとあかりに近付き、背中から腕を回し、その小さな体と頭をぎゅっと抱きしめた。
 あかりの涙は収まらない。かなではあかりの正面に回り、ビスケットが大きく描かれた鞄から白いガーゼのハンカチを取り出すと、幼女の滂沱の涙を優しく拭った。
「おねえちゃん、ありがとう」
 震える声であかりは言った。
 母親は腕組みをし、歯を強く噛み締め、きつい眼差しをしている。
 ハンカチをしまいながら、かなでは思う。あと何回、地上に舞い降りたかわいいこの天使を慰めればよいのだろう。代われるものならわたしが代わってあげたい。憎い病気を引き受けてあげたい。でも、わたしには何もできない。こうして思うことしか。
 思うこと。それは、何の解決策にもならないことだった。かなではわかっていた。しかし、中学生の彼女にとってできることは、あかりを思うこと。それよりほかになかったのだ。

 *

 昨年の三月、父親が今の母親と再婚して、あかりがかなでの妹になって以来、ずっと思っていた。初めて会ったときから、あかりが不憫でならなかった。照れて、母親の脚に抱きついていたあのときの顔は、まったくと言っていいほど変わっていないと、かなでの目には映っている。
 かなでは妹ができるのが嬉しかった。ずいぶん長い間、父親と二人暮らしだったから。前の母親のことはあまり覚えていない。
 保育園。十五時になると、級友たちには、母親の迎えが来ていた。かなでは十八時まで延長。父親が迎えに来るのはかなでのところだけ。
 かなでは一度だけ尋ねたことがあった。
「ねえ、どうして、ウチにはお母さんがいないの?」
 父親の答えはこうだった。
「さみしくて、逃げちゃったんだよ」
 幼心にそれ以上は聞いてはいけないとかなでは思い、以降、二度と疑問を口にしなかった。
 だったら、母親は要らない。せめて、妹が欲しい。
 父親は充分やさしかった。事実、愛情をたっぷりかなでに注いでいた。しかし、如何せん、仕事が忙しい。かなでが小学校に上がったると、父親は朝は七時に家を出て、夜は日付が変わるか否かの頃に帰ってきていた。その間、かなではずっと独りきり。自分の部屋で、等身大のコウテイペンギンのぬいぐるみと対面して座り、声色を使い分けて、一人二役のおしゃべりをして過ごしていた。かなでにとってペンギンが妹だった。
 小学校であった楽しいこと、腹の立ったこと。通学路で見つけた小さな花、近所の野良猫の毛づくろいの愛らしさ。二時間でも三時間でも、飽くことなく、限りなく、いくらでも過ごすことができた。小学六年生の終わりまでその習慣は続いた。
 そして、新しい家族ができた。父が母と、何処で、どうやって、いつの間に出会ったのかは知らない。そこは興味がなかった。ただ、念願が叶い、人間の妹ができた喜び。かなでは言い表せなかった。母親はさみしくなったら、きっと逃げてしまう。だから、妹を深く愛そうと思った。
 かなでは新しい母親を嫌うことをしなかったが、好きにもなれなかった。自分のお腹を痛めて生んだ娘に、不味い自家製のヨーグルトを食べるのを強制したり、ところ構わず怒ったり。その度に、あかりは泣いていた。かなでの目には新しい母親がサディストに映った。
 あかりちゃんを何としても守らなければならない。泣かせたくない。
 かなではあかりに出されたヨーグルトを、母親の目を盗んで代わりにこっそり食べてあげたり、あかりの肌にアトピーの薬を塗ってあげたり。損得とか、見返りとか、まったく考えず。
 純粋な、余りに純粋な目をした、あかりは声を出す。
「おねえちゃん、ありがとう」
 かなでは顔を歪ませる。血の繋がりなどけっして欲してはいなかったかなでにとって、あかりがますます誰よりも愛おしい存在になっていく。ただ、泣き顔ばかり見せるのが、気がかりだった。

 *

 帰りの電車。乗り換えの為に最寄り駅の一駅前でホームに降りる。かなでは目の前に神社の看板を見つけた。
 かなでたち一家が住む市には、古く、伝統のある、有名な神社があった。かなでは小学校の遠足で行ったその神社のことをすぐに思い浮かべた。
 神社。神様。神頼み。
 かなでは、「これだ」と思った。祈るのなら実際に神様に祈りに行こう、と。
 かなでは一旦、帰宅すると自転車のタイヤに空気を入れて、神社に向かって漕ぎだした。
 手袋を忘れた為、手が痛いくらいに冷たかった。
 あかりちゃんの辛さはきっとこんなものじゃない。もっとだ。
 自分に言い聞かせながら、かなでは進んだ。
 およそ三十分で到着。かなでは息を整えてから、鳥居をくぐった。
 もう初詣という時期ではない。お祭りごともない。陽も暮れかけている。境内に参拝客は、ほとんどいない。
 拝殿の前にかなでは立った。お賽銭を置くように入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍一礼をする。十四歳のかなででも、そのくらいのことは知っていた。
「神様、どうかあかりちゃんのアトピーを治してください。それがダメなら、せめて、わたしが代わりになります。その為なら、何でもしますから」
 いつしか空には暗雲がたちこめていた。ぽつ……ぽつ……と、雨が降り出す。かなでは踵を返し、自転車置き場に急いだ。瞬く間に雨の勢いは増し、かなでを襲った。もちろん、服はずぶ濡れ。どしゃぶりの雨に打たれながら帰っていった。
 家に着くなり、剥ぐように服を脱ぎ散らかし、お風呂に入って着替えたが、時すでに遅し。
 身は小刻みに震え、頭は沸騰したかのようにぐらぐらする。居間にあった体温計を脇に差し込み一分待つ。三十八度を超える熱があった。堪らずかなでは薬も飲まず、布団にもぐりこんだ。眠りに落ちる間際、天から差す一筋の光に撃たれる気がした。
 明日学校を休むだろうなと、かなでは思って寝たが、朝起きてみると、しかし、快調だった。上半身を起こし、人差し指で頬を軽く掻く。
 まず、かなでは洗面所に行って、顔を洗おうと……
「あっ」
 思わず声が漏れ、後ずさった。顔が猿のようにカサカサで真っ赤だったのだ。
 かなでは我が目を疑って、何度も何度も瞬きを繰り返して確かめた。やはり現実は事実だった。結果は変わらない。
 かなでは踵を返し、あかりの元へ向かった。あかりはまだ眠っている。暗がりの中、足音を立てずに近づいて、顔を確認した。
 ない。きれいに消えている。あかりの顔の炎症はすっかり治まっていた。
 昨日の雨は、未明には止んでいた。ちぎれた白い雲たちが、空を泳ぐように滑らかに流れている。
 かなではあかりの、天使の寝顔を目に焼き付けて、部屋を去った。
 願いが叶った。
 かなではくるりと一回転して、ボロボロの顔で笑った。ほんのわずかな曇りも見当たらなかった。
 制服に着替え、食卓に着く。白いご飯と、豆腐とわかめの味噌汁と、焼き鮭と、納豆が用意されていた。旅館の朝食のような組み合わせ。
 かなでは手を合わせ、「いただきます」と言う。
 遅れて母親が椅子に腰掛ける。
 と、目を丸くした母親は、声を上げた。
「かなで、どうしたの? その顔は!」
 かなでは言葉に詰まった。どう説明したらよいものか。一旦、頭を整理し、余りに荒唐無稽で、不思議な出来事で、信じてもらえないかもしれないが、真実を話そうと言葉を選んで語り出す。
「神様にお願いしたの。あかりちゃんのアトピーを代わってあげたいって。そしたら、願いがかなったんだ」
 母親は、「何を言っているんだ」という表情をして、しばらくためつすがめつかなでを観察した。
 何も気付いていないあかりが布団から起き上がってやって来た。
「おはよう」
 まだ眠たげだ。母親は即座にあかりの顔をまじまじと見つめた。皮膚炎がさっぱり消えている。
「そう……」
 母親は言葉が見つからない。現実に起きている不思議なことを不思議なまま受け入れた。
「うん。そうなんだ」
 かなでは弾んだ声で答えた。
「いただきます」
 かなでは母親の視線をよそに、箸を動かし始めた。
「行ってきます」
 かなでは出掛けにあかりを見た。あかりはまだ自分の身に起きたことに気付いていないようだった。
 冬休みが明けて、初日。およそ二週間ぶりに会うクラスメイトたちは、かなでの顔を見て、久しぶりという類のものでない驚きを受けた。
 中から、一番親しいユキが瞬きを多めにしながら、背中を丸めて、ゆっくりと近付いてきた。
「かなちゃん、どうしたの? その……、その、顔」
 ユキの視線は、かなでの顔と窓の向こう側を行ったり来たりしていた。
「これね。神様からの贈り物なんだ」
 ユキは眉根を寄せた。思ってもみない、ちんぷんかんぷんな答えだったからだ。なおも、尋ねる。
「何か悪い病気でもなったの?」
「ううん。違うよ」
「そう」
 ユキはそう言って、混乱しながら離れていった。
 クラスメイトたちは、かなでの顔のことをまだ話題にしていた。かなでの耳に届く音量で。
 しかし、かなでは意に介さず、寺山修司の詩集を鞄から取り出し、読み始めた。
 やがて、ホームルームの時刻となり、担任の教師が教室に姿を現し、連絡事項を伝える。終わると、ちょうど入れ替わりに国語の年寄りの教師がやって来て、一時間目の授業が開始された。
 四時間目の英語の授業が終わって、育ち盛りの中学生が楽しみにしている給食の時刻になった。
 かなでは、いつものようになかよしグループと机を並べようとした。
 だが、かなではいつもと様子が違うことを察知した。みんなが目を合わせない。声がかからない。白々しい。かなでの割って入る隙がなかった。
 かなでは口元を小刻みに震わせながら、その場に立ち尽くした。しばらくして、拳を握ると、自分の席に座り、ひとりで食事をしだした。
 味のしないご飯を食べながら、かなでは思った。
 わたしが何か悪いことをしたか? 人を傷つけることを言ったか? 何もしていないでしょう? 少なくとも、身に覚えはない。
 人は、皮膚が変わるだけで、こうも態度を変えるのか。確かに、今のわたしは、醜い。女の子なのに、こんなだもの。ただ、わたしは、あかりちゃんを醜いと思ったことなど、一度たりともない。皮膚なんて関係なく、ずっとずっと、地上に舞い降りた天使だと思ってきた。醜さは、迷惑なの? 罪なの?
 かなでは、胸からこみ上げる怒りと悲しみを塗り混ぜた激情に頭が支配され、目頭が熱くなった。嗚咽が漏れそうなのを、やっとのことで堪えた。
 味方は、いない。本当の友だちなんていなかったんだ。
 達観したかなでは、返って清々しい気持ちに辿り着いた。自分にはあかりさえ居ればいい、と。ようやく病から解放された天使の顔を、これから毎日見られる。それで充分だと思った。

 *

 あかりは、床に足の着かない椅子に座ってブラブラさせながら、おやつのマカロンを食べていた。休み明けということで、通常より早く帰宅したかなでは、自然とニコニコになって、
「お姉ちゃんにもちょうだい」
 と言った。
「はい」
 小さな手が伸びた。
「ありがとう」
 ピンク色のマカロンを受け取ったかなでは、そっと下にのせた。
「おいしいね」
「うん、おいしいね」
 あかりは満面の笑みを見せたあと、
「あれ?」
 と言って、真ん丸の大きな目を見開き、かなでの顔をしげしげと観察した。
「おねえちゃん、おかお、どうしたの?」
 かなでは咀嚼していたマカロンを飲み込んだ。マカロンが食道に詰まったかのように、言葉が出てこない。
 まさか、病気が乗り移っただなんて、口が裂けても言えない。信じてもらえるかどうかの前に、純粋で疑うことを知らないあかりは、きっと心を痛めてしまう。どうしたら、あかりに心配をかけずに説明ができるか? 上手く言えなくても、しっかり説明しなくちゃ。相手が小さい子だからと言って、侮ってはいけない。
 かなでは、あかりの真っ直ぐな視線に目を合わせ、口を開く。
「えっとね……。女の子は大きくなると、一月に一回くらい体が悪くなるときがあるの。お姉ちゃんは今、そのときなの」
「そうなんだ。はやくよくなるといいね」
 あかりは納得して、悲しそうな、でも、優しい声で言い、かなでの頬に手を当て、さすった。
 かなでは、あかりの手に自分の手を重ね、言う。
「ありがとね、あかりちゃん」

 *

 年度が変わって、進級して、クラス替えが行われても、相変わらずかなでは、直接的ないじめはないものの、クラスの中で孤立していた。男子からは陰で「猿」と呼ばれていた。いつかその蔑称もかなでの耳に入ってきた。心をコンクリートにして聞き入れないようにしていた。しかし、密かに想っていたタケシ君にもそう呼ばれているのを知ったときは、トイレの個室に駆け込んで、声を殺して、歯を食いしばって涙を垂らした。
 泣かないって決めたのに。
 硬かった筈の誓いはガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
 神様に何でもしますからってお願いしたのは自分。だから、何でも受け入れるべきなんだ。
 かなでは涙を拭うことなく床に落とした。涙が涸れるまで泣き腫らした。すっかり出し切ったあと、鏡に向かう。醜い猿がいた。次の授業は、「気分が悪いので」と教師に言って、保健室で休むことにした。
 かなではベッドで横になり、天井を眺めた。白い平面に描かれたのは天使の顔。ごく自然にあかりを思い浮かべていた。
 あかりちゃんには、こんな姿、ぜったい見せられないな。
 かなでは、へその辺りに両手を添え、膨張と収縮を感じながら、三回、大きく深呼吸をした。

 *

 クラスメイトたちの、かなでに対する温度はエスカレートしなかった。かなではいつしか、冷たさに慣れてしまっていた。無視されることも、嫌なあだ名で呼ばれることも。心はコンクリートからダイアモンドへと変わっていた。
 家に帰れば、あかりがいる。どんなに苦しくて、どんな悲しくて、どんなに淋しくて、どんなに悔しくて、そして、どんなに落ち込んでも、あかりがいる。その度に、天使の笑顔がかなでを温めた。
 季節も、寒さが本格化する頃だった。
 かなでが自室で翌日の英語の授業の予習をしていると、扉をノックする音が聞こえた。
「かなで」
 父親の声。
「はーい」
「入るよ」
 現れた父親は、実に照れくさそうにしている。
「珍しい。どうしたの?」
「いや、ね」
 父親はかなでの机の上を見た。
「おー、勉強、頑張ってるな。感心、感心」
「まあ、フツーだよ」
「でも、あんまり夜更かしするなよ。寝不足になったら、明日に響くぞ」
「これが終わったら、すぐに寝る」
「今夜も冷えるし。ストーブを惜しむなよ」
「うん」
 かなでの父親はいつもこうだ。すぐには本題に入らないで、回り道をする。枕に何か話しておかないと、言いたいことを言えない性質だ。かなでは嫌ではなかった。普段、接することが少ない父親なりの愛情表現だと思って、ありがたく受け取っていた。
「話は変わるけど」
「何?」
 かなでは丸まっていた背筋を伸ばした。
「どこから話そうかな。うーん」
 父親は腕組みをする。
「そうだ。よし。あかりにね、訊いたんだ。クリスマスっていう日があって、良い子にしていると、その日にサンタクロースっていうお爺さんにプレゼントを貰えるんだって。あかりは良い子にしているから、きっと貰えるだろう。何が欲しい? お父さんが代わりにサンタクロースに頼んでおいてあげるよって。そしたら……」
 急に父親の顔は、くしゃくしゃに歪んだ。声色もがらりと変わった。
「そしたら、『おねえちゃんの、おかおのびょうきをなおす、おくすりがほしい』って言ったんだよ。俺はその場で上手い返し方ができなくて、そうか。頼んでおくよって言ったんだけどさ……」
 涙。涙。涙。
 かなでは泣いた。生まれたての赤子のように泣いた。それは、生の喜びに満ち満ちていた。

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