見出し画像

ハシグチリンタロウ個展「たまSEEネイション」から原始的な言語について考える

書家/WLIGHTEのハシグチリンタロウさんが長崎のパチンコやさんの跡地で個展を開催されます。

「たまSEEネイション」
作家:ハシグチリンタロウ(WLIGHTE/書家)
日時:2020/12/19-12/27(各日10:00-18:00)
場所:〒851-3501長崎県西海市西海町川内郷1106
有限会社山﨑マークの隣り旧パチンコ店
※無料駐車場あり(10台まで)

ZINE(小冊子)をいただいたので、そちらを読み解きながら、ハシグチリンタロウ作品について考えてみました。

ハシグチリンタロウさんがどんな作品をつくられているか、一言でまとめるなら、言語の原始化、でしょうか。ちょうど最近、原始的な言語としての「感情」について考えていました。

笑ってるとか怒ってるとかの感情って、言葉がまったくわからなくても、相手の表情や仕草、声のトーンなどを通じてけっこう分かるんですよね。人類共通で分かる。でも、どんな時にどんな「感情」がわき起こるかっていうのは、人それぞれなので、「感情」がその人固有の母語になるんじゃないかっていうのを考えたのです。

ハシグチリンタロウ作品は、言語の扱い方が非常に音楽的かつ感情的で、そのあたりに言語の原始的な部分を感じるんですね。

今回の個展「たまSEEネイション」は、展示会場で作品を見ているわけではないのですが、複数の軸が存在しているように感じます。

現実(パチンコ店跡地という会場)と想像(宇宙の片隅で生まれた何か)
過去と未来
言葉の距離感が変わる
意味と無意味
進歩と後退

こんな感じの交錯が同時に存在している気がするのですね。

一つずつ考えていきます。

現実と想像

タイトルや作品の形状から分かるように、個展自体はパチンコ店の跡地であることを意識したつくりになっています。

パチンコの「たま」、たまSEE、ノートに書かれたピコピコの文字、たまが生き物のように移動している感じ。球体部分に顔が描かれており、それが動いている感じを示していることから、魂(たましい)がどこかへ向かっていくような感じもします。

これらが、千万億兆のずっとむかしに生まれ、延びていく物語がZINEには書かれていますが、これは想像の産物なんですね。

実際にあったことと、現実があったからこそ生まれた想像上の物語が交錯していることになります。

過去と未来

現実にあったけど、パチンコ店っていうのは、今はなくなっていて、それがあったのは「過去」の出来事なんですね。それがこの個展をゼロ地点として、今後はアートの展示場所として生まれ変わっていくのかもしれません。

パチンコ店 → たまSEEネイション → 文化交流基地 HOGET/ホゲット

図解するとこんな流れがあり、この個展自体が過去を引き継いで未来に渡すような役割を買って出たような感じがします。

言葉の距離感が変わる

ノートに書かれたテキストをよく観察すると、漢字ひらがなが入り混じっている状態のテキスト以外に、明らかに「ひらがなばかり」のところが存在します。


あるいは「古い」という言葉が「ふりい」と書かれていたり、「会社」というけっこう簡単な漢字が「かいしゃ」とひらがなで書かれていたりします。

日本語を母語とする人だとたぶん、ひらがな表記ってやわらかく感じるんですよね。カタカナだとロボットっぽい。文章を書き慣れている人は、ひらがな・カタカナ・漢字のバランスを考えて視覚的にも読みやすく書いています。

そこにぱちんこやがあったよ
ソコニパチンコヤガアッタヨ
そこにパチンコ屋があったよ

発音は同じだけど、ニュアンスが微妙に違いますよね。日本語がおもしろいのは、表記によってニュアンスが微細に変化するところで、これは集団が醸成してきた感性によって理解し合うところなんじゃないかと思っています。

また、これはけんすうさんという方が言ってたんですが、言葉には、遠くなるとやわらかくなるという効果があるんですね。

たとえば
トータリーでアグリーです
全面的に賛成です

同じ言葉だけど、英語にすると母国語じゃない分、ちょっと遠い感じになる。するとちょっとやさしく感じませんか。

パチンコ店がいいですよ
パチンコ店とかいいらしいですよ

距離が遠くなると、強制感が薄れますよね。

ひらがなが多用されたり、作り込まれた文章がタイピングされたりしていることで、言語の距離感が遠ざかったり近づいたりしているんです。

意味と無意味

添えられた手書きテキストでは、物語を紡いでいるようなところもあれば、現在の社会に対する思いが書かれているようなところもあります。

同時に、思いついた言葉をただ発しているようなところもあるんですね。これはたとえば、好きな曲を歌う時って、歌詞の意味を考えながら歌ってるわけじゃなくて、ただその音感が心地よくて歌ってるのに近いんじゃないかと思っています。

歌になった時、意味があったはずの言語は意味を喪失して、旋律になります。言語は直接的な分、高い攻撃性をもつことがありますが、旋律になった場合には、その意味合いがかなりあいまいになり、そもそも意味を取るかどうかが受け手にゆだねられます。

言語っぽい部分から、旋律に変わるような部分がゆるやかに移行していて、境界を引くことがそもそも難しいのです。

画像2

文章すべてに意味はあったのか、どこから意味が生まれたのか、もともとすべてが旋律だったのか。テキストとしても旋律としても不完全で、だからこそ両者の特徴をもつような、意味と無意味の間にある文章が生まれています。

進歩と後退

画像3

作品は注目してみると全部、右上あがりな感じになっています。「たま」みたいなやつらがみんな、右上に向かおうとしている。

右上あがりだと、なんとなく上昇してるような感じがするんですが、たぶんこれは現代日本人だからなんじゃないかと考えています。戦前って、日本語は右から左に進むものでしたよね。

日本古来の絵巻物も、右から左に進むのがふつうだったようです。でも、文字が左から右に進むようになり、グラフとかも国際的に左が過去、右が未来みたいな並べ方をされるようになった世界で生きていると、右が上がっていると成長しているように見えます。

この左右の切り替えって、日本全体の歴史からみると、かなり最近起こったことですが、それでももう、すっかり馴染んでしまっていて、右上に向かっていると自動的に成長してる感じがしてしまいます。

だけど、円形の部分に描かれた顔はそこそこしょんぼりです。ノートに描かれている顔は笑ってるっぽいのもあるんですが、基本的にみんな「ンー」っていう顔をしています。少なくとも、成長やったー!っていうばかりではなさそうです。それは「たま」として生きていた彼らの終焉を表しているのかもしれません。

こういった複数の要素の交差点に、ハシグチリンタロウという作家がいるのですね。彼を起点に、過去と未来、現実と想像が広がっていく感じなのです。

パチンコ店が発展してあちこちに展開し、やがて事業を譲渡。残された場所は全く違う役割を与えられることになりましたが、場所がもつ「たましい」は、新たな役割とともにここに戻ってきたのかもしれません。

かなり大型の作品も見られるようなので、お近くの方はぜひ、寄ってみてください!

個展情報はこちらからも確認できます。


ここまで読んでくださってありがとうございます! スキしたりフォローしたり、シェアしてくれることが、とてもとても励みになっています!