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デンマークで聞いた「執着を捨てると物事は実現しやすくなる」の話

「彼はパン屋になったとして、彼女はその後どうなったんですか?」
 デンマークのコペンハーゲンに住むアートコレクターの老人のところに話を聞きに来ていた。コーヒーを飲みながら、パン屋になったアーティストの話や人生を豊かにする方法を聞いている。

 アーティストの彼と一緒に住んで生活を支えていた彼女。パトロンとして彼をトップアーティストになるまで育てようとしていた彼女だったが、彼はアートをやめてパン屋を始めてしまった。彼の新しい人生を最後に後押ししたのが、この老コレクターだったのだ。

「そう、私が手助けをしてしまったこともあって、彼女は恋人と同時に夢を失ってしまったんだ。アーティストのパトロンになって彼が有名になるのを後押しするっていう夢をね」
 老人はコーヒーを口に含んでしばらく沈黙する。静寂の中に時計の音が響いていた。

「彼と別れたことは、彼女の夢にとってもプラスなことだったんだけど、その時の彼女にはもちろん、そんなに簡単に受け入れられることじゃなかった。時間もお金もかけて育てていた恋人がアートを辞めてパン屋になってしまったんだからね。
 彼のほうはアートとしてパンをつくりたいと思ってたんだろうが、少なくとも彼女が目指していたこととは違っていた。だから早く手放したらよかったんだけどね」
「なかなか簡単じゃないですよね」
 彼女はアーティストの恋人のためにアトリエと住まいを提供し、生活を何年も支え続けていた。急にパン屋を目指し始める彼に対して納得できないのも当然だろう。
「彼女が抱えていた問題は執着だよ、彼に対する執着。執着があると視野が狭くなるからね。彼女は彼に対して怒り、泣きわめき、戻ってくるように懇願した。
 しかし、はたから見れば、それは彼女にとってもいいことじゃない。彼女はアーティストを無名の頃から育て上げるのが夢だったんだ。そういうアーティストの成長過程を一番そばで見たいというのが彼女の夢だ。
 彼女は自分では創らないが、純粋にアートが好きなんだ。アートを創る人と一緒に暮らし、一緒に成功することでその過程のすべてを体験したがっていた。その相手は彼ではなかったというだけ。新しい人を探せばいいだけのことなんだよ。
 こう言ってしまうのは、あまりいい言い方ではないけど、彼はいいアーティストだったがトップにはなれなかっただろう。それでも彼と暮らした経験は彼女にとってもプラスになった。次のアーティストに出会った時のための学びだったとも言える」
「周りから見てて思うことと、本人から見える世界って違いますもんね」

 老人はうなずき、飲み終えたコーヒーカップをテーブルに置いて両手を組んで座り直す。
「執着の正体は何だと思う?」
「えっ、うーん。手放したくないっていう思いだから、所有ですかね」
「うむ、その通りだ。しかし、執着によって限定された所有というのは、非常に狭い範囲のものになってしまうんだよ。他の物に気づきにくくなってしまう」
「どういうことですか?」
「たとえば、私が君のコーヒーの残りを勝手に飲んだらどう思う?」
 老人は私が右手に持ったコーヒーカップを指さして言った。

「それは、嫌な感じがしますね。なんでだろうって。欲しいならまた注ぎに行けばいいのにって」
「そうだよね。つまり君は、そのコーヒーを自分の物だと思っている」
「はい」
「でも、それはもともと私の物だ。うちで淹れて君に出した。君は私の所有物を飲んでいるのに、私が取ろうとすると嫌な気持ちになってしまうんだね」
「ああ、確かに。すみません」
「ははは、謝らなくていいさ。ほとんどの人がそう思う。私だってそうさ。ただ、その考えが強いと、いつもその考えに縛られていることになる。ここまでは私の物、ここからは他の人の物。自分の物は使えるけど、他の人の物は勝手に使えない」
「そりゃあ、スーパーに行って勝手に物を持ってったら犯罪になっちゃいますよね。所有の意識がないと犯罪が起こりまくってしまうのでは」
 私は老人の言うことがよく理解できなくなって聞き返す。

「所有しているモノが膨大になって、私たちはすでに自分の所有を抱えきれなくなっているんだよ。多くの人が所有という考えのおかげで道を狭めてしまっているのさ」

 私が軽く首をかしげて分からない顔をしていたので、老人は少し笑顔をつくって話を続ける。
「たとえば、この家は私の物ではないんだ。郊外に住みたいという友人の家なんだよ。私たちはお互いの家を適宜交換しているんだ」
 デンマークでは成人したら家を出るのが普通で、成人後も実家に留まっているとあまりいい目で見られない。子どもが成人すると大きい家を売って夫婦だけの小さな家に引っ越すというのが定番なのだと聞いたことがある。

「仕事をリタイアした彼は郊外に住みたかったが、コペンハーゲンは便利だからね。家は手放したくないと。しかし、郊外のもっと広い家に暮らして趣味を充実させたがっていてね。私の家はそれなりの広さがあるし、私はコペンハーゲンに家が欲しかった。ここは便利だろう」
「はい、中心部ですもんね」
 家賃も高そうだ、と私は内心思っていた。
「彼は私の家の一室を使い、私は彼の部屋を自由に使う。私たちはお互いに行き来して自由にお互いの家を使っているんだ。ここは彼の部屋だが、私の家でもある。私たちは二人で二つの家を所有しているんだよ」
「わー、なるほど。すごくいいですね」
「インターネットのおかげでさまざまなものが共有できるようになっただろう。ネット上の情報や知識を誰かの所有だとは思わずに利用するし、自分でも共有する」
「そうですね。物の交換とかもネット上のサービスでやりやすくなったかも。ちょっと壊れた不用品とかをあげてしまうとか」
 老人はうなずき、右手を軽く顎に当てる。

「そうそう、そんな感じだ。自分の持ち物でなんとかしようと思うと、物事の実現はなかなか大変だ。まずは自分の物にするためにがんばらないといけないからね。だけど、自分の所有物じゃなくても、やりたいことが実現できればいいんだって思うと、けっこう道がスムーズになるんだよ。
 私はコペンハーゲンにほどよい家が欲しかった。ギャラリーを巡って小さなアートを集めたいと思っていたよ。
 そしたらちょうど、友達が郊外に家が欲しいんだが、コペンハーゲンの自宅も手放したくなくて悩んでいるという話を聞いた」
「いいなぁ、お互いのマッチングがうまくいってますね!」
「技術や知識、紹介、アイデア、労力。物のように形があるものじゃなくても価値があるものはこの世にたくさんあるだろう。私はアートが好きだから、もちろん創る人をリスペクトしているわけだけど。この部屋を一週間貸すのと引き換えに小さな作品を一つもらうこともある」
「ああ、なるほど。それもいいなぁ」
「ここまでが自分の物、という執着さえなければ、そういうことに気づきやすくなるんだよ。所有してなくても、自分がやりたいことが実現できればいいんだから」
「そうですね。誰かが航空券代を出してくれて、住むところを用意してくれて、ごはんを出してくれたらそれで全然いいです」
「あはははは、正直だ。でもそういうのは意外と叶うもんだろう? 私は彼女に、いったん彼よりもいいアーティストを探すことに目を向けろと伝えたんだ」
「見つかったんですか?」
「もちろん。アトリエには彼の画材が残したままだったから、新しく来たアーティストにとっては天国のようだった。先生としてアートを教えていた経験もあったから、彼女の質問にも丁寧に答えられる子だった。彼女は彼にアトリエ提供することに決め、元彼にもそう告げた。元彼からはお祝いのパンが届けられたと言っていたね」
「おお、みんな丸く収まってる。よかったですね」

「ふふふ。自分が持ってるものしか使えないと思ってしまうと、物事の進み方は遅くなってしまう。自分の持ち物であるという意識を捨てて、自分がいらないものは必要な人に渡すんだ。そして自分も積極的に必要なものをもらいに行く。相手から奪うわけじゃないよ、必要なものを渡し合うんだ。
 覚えておくといい」

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みじんことオーマ
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