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現代アートとしての書について考える

現代アートとしての書の祭典、ART SHODO FESTA 2021を見に行ってきました。

出展された方の中で気になった作品について、ちょっと丁寧に考えて生きたいと思います。

ロミコさんの作品で「円相 THERMALMOTION」です。

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ART SHODOというムーブメント自体はとてもおもしろくて、会場に置かれていたステートメントに加えて、「コンセプトを明確にするために考えたこと」を書かせる項目があったんですね。審査形式の展示なので、審査員向けコメントでもあると思うんですが、教育的要素の強い設問なんじゃないかなと感じました。

本作に関しては「熱こそが、書の正体」ということをコンセプトとして掲げ、アクリル板に書いた形状を画仙紙に写し取って作品化しているんですね。なので、作家が書いたモノ自体ではなくて、一度転写という過程を通した作品になります。

書が持っていた役割の一つに「記録」がありますが、それがコンピューターやフォントに置き換わっていった現代において、書の芸術性とは何か、というのを突き詰めてたどり着いたコンセプトです。

書の要素のうち、根源的な、つまり書き残すという行為自体や、言葉にならないもの、生じる温度、湿度、気、魄、意、圧、刻、写など、不可視の要素にも着目し、それらこそ、通底する書の正体ではないかと疑い、視覚化を試みた。
(作家のステートメントより引用)

私がこの作品を見て、とても興味深いなと思ったのは下記の3点です。

1. 熱が書の正体であるという解釈
2. 転写という行為によって言葉の伝達機能を端的に伝えている
3. 3点の形状の違いによりフォントとは違う文字のもつニュアンスが表現されている

1つずつ考えていきます。

1. 熱が書の正体であるという解釈

この展覧会自体がそもそも、「書」の現代アートというテーマを掲げているので、書の可能性を引き出しているかどうかっていうのが鑑賞者としてはとても気になるところなんですね。

でも、私自身は書家ではなく、書の知識がぜんぜんないので、書といえばお習字かな!っていうくらいの認識しかありません。そんな素人でも、石川九楊さんが「書は時間の芸術である」という解釈はおもしろいなー!と感じたのです。

実際に書をやってる人からしたら、いろんな考えがあると思うのですが、解釈の一つとして、時間の芸術だっていうのは、素人にも分かりやすいことだと思うのです。というのも、書(文字)って「書き順」があるじゃないですか。だから、書く時にはだいたい、決まった順番で書かれるんですよね。順序がある→作家が書いた書き順が見る側にも時間経過として伝わる、という意味でとてもおもしろかったんです。

ロミコさんの「熱こそが、書の正体」というのも、摩擦熱とかを考えるとけっこう分かりやすくなります。昔、知り合いの書家さんに聞いたんですが、書って手先で描くものじゃないらしいんですね。身体全体を使って書くのだと。身体全体を使うっていう部分は、現代の文字の書き方=タイピングとは大きく異なる部分です。タイピングって完全に手首から先くらいしか使わないですし、身体を使うとそもそも書きにくいです。

書というのは、制作行為によって作家の身体性を表したもの、身体の動きを平面に投射したものと考えることもできます。

書を書く時には、作家の気持ちとしての熱量もありますが、紙に摩擦も生じます。でも、普通の紙だと墨汁べったりつけて書こうとしたら、紙はすぐ破けてしまいますよね。そこでアクリル板です。これならめちゃくちゃ力を入れて書いても破けることがなく、熱が線となって板の上に残ります。

私はこの「熱こそが書だ」と考えた哲学部分がとても好きなんですね。言葉にしてしまうととても短いですが、この短い哲学に落とし込まれるまでに、深い思索があったことは容易に想像がつきます。自分が考えることを端的に、かつ誰にでも分かる言葉に落とし込むことはとても難しいからです。

私は現代アートのこの哲学的なコンセプトがとても好きなんですが、長く残る作家のコンセプトは「問い」と「答え」を両方内包しながら、未来の道を示していくものなんじゃないかと考えています。

アートは問い、デザインは答え、みたいな言い方がされますが、最近の自分は、現代アートは「問い」と「答え」を両方含んでいるんじゃないかと考えてるんですね。

たとえば、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻は
すべての人は社会を彫刻するアーティストだよね?という問いと
すべての人は社会を彫刻するアーティストであるという答え
が含まれていると考えることもできます。

村上隆さんのスーパーフラットも。ロミコさんの「書の正体は熱である」というのも、熱だよね?という問いと、熱だ!という作家の導き出した答えが両方含まれていると思うのです。

そして、もしもこの概念が浸透した時に、現代アートとしての書の未来がもっと開けるんじゃないかと想像させてくれるなぁって感じたのです。分かりやすくいうと、この概念が一般化した時に、熱を用いた書作品がたくさん生まれ、芸術としての書がより多様化していく、その起点になりうるコンセプトなんじゃないかなと思ったのです。

私は最近、現代アートをつくる上での原体験に加え、そこから未来につながる先見性みたいなものを感じさせてくれる作家さんが好きなのですが、そういう意味でとても想像力を刺激してくれた作品でありコンセプトだなぁと感じました。

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2. 転写という行為によって言葉の伝達機能を端的に伝えている

書が生まれるためには文字(書く対象)が存在する必要があるんですが、こちらの本に興味深い歴史が紹介されていました。

それは「文字をもたない民族は文字をもつ民族に征服されてきた」です。

話し言葉ではなくて「文字」を発明したかどうかです。文字として残して集団を教育できたということは、伝達の精度が上がったということだと思うんですね。

他者への伝達方法としては、口伝とかもあったのかもしれないですが、口伝の場合は伝える人がどれだけ正確に覚えていられるかにもよってきますし、口伝する人の解釈とかも含まれそうです。通訳とか翻訳とかを想像していただくと分かりやすいんですが、訳者のスキルによって意味合いがぜんぜん変わってしまうことってあると思うんです。そういう意味で、手紙で伝えられた場合は、書いた人の意図がかなり正確に伝わりやすくなります。ただし、その場合は集団として同じ文字が読め、意図が伝わらないといけません。

しかし、それができていると、集団としての意思統一がしやすく、集団として強くなるんじゃないかなと思うのです。なんとなく、単細胞生物が多細胞生物として集合し、細胞がそれぞれ役割を持ち始めたのを想像させます。

この辺りの歴史から、文字の発明と伝達により、民族(集団)として強くなった、と私は考えました。共通の言語を持っていると、他の人と意思疎通しやすいですよね。言葉の通じない国に行くとよく分かりますが、意思疎通がしっかりできるかできないかって、個体の生存にも強く影響することだと思うのです。

この作品は転写という行為によって、文字の伝達性、書のおおもとの存在意義みたいなものを感じさせるのですが(そもそも書は最初、紙ではなく石に書かれていた時代があります)、転写してるってことは左右逆転してるんでしょうか。

作家さんにちゃんと確認しなかったので、実際に書いたものとは左右逆転しているのか、裏側から貼って書いた向きと同じになるように作品化されたのかは分からないのですが、どちらだったとしても読み解く要素があるなと思いました。

→左右逆転してたとしたら
螺旋的な形状も合わせ、DNAが転写複製されているようにも見える。その場合、複製は過程を見せていることになり、左右を元に戻す「翻訳」の過程を鑑賞者の脳内で行う必要があり、言葉が相手に聞こえ、相手の中で「理解」される過程まで含めて表現しているようにも捉えられる。

→左右逆転してないとしたら
作家が書いたそのままの向きで作家の動き、熱量を作品から感じ取れるものとなっている。また、転写という行為により文字の伝達性が表されており、文字として誰もが認識できる形状になっていない分、書いた人の熱(エネルギー)のみが抽象化された言語(非文字)として伝わるのではないか。

みたいな感じです。

しかし現代では文字による伝達は伝達の一手段に過ぎなくて。現在では映像や音声のみでの伝達も可能になりましたよね。文字自体もそもそも手書きする必要性がなくなってきました。自分はタイピングが好きなので、文字は「書く」ものではなく「打つ」ものになっています。

テクノロジーの発展により、文字が生まれる速度と思考の速度がどんどん近づいていて、思考と文字が同時発生するようになりました。人は基本的に言葉によって物事を認識し考えるので、言葉をアウトプットする速度が速いほど、たくさん考えられるようになるかもしれません。

こういうテクノロジーの発展によるアートの変化って、美術の世界ではいっぱい起こってるんですよね。チューブ絵の具の開発によって画家が外で絵を描けるようになったこと、写真が生まれたことで正確に絵を描くスキルの価値がなくなってきたこと。今はデジタル作画もできるし、VR技術なんかも発展してきています。

逆に言えば、テクノロジーの発展によってこれまでの意義や手法を奪われたからこそ、新たな表現に向かわざるを得なくなり、美術は新しい表現にたどり着いたと言えなくもないです。

国民がみんな書道教室に言ってた時代から、そもそも文字の手書きすらしなくなり、絵文字がMoMAに収蔵されるような時代になりました。美術だけでなく、書も、書が社会(未来)に対して何ができるのか、というのを時代に問われているのかもしれません。

書というのは、基本的に制作開始から完了までが非常に短い芸術です。もちろん作品にもよるし、コンセプトを考えてる時間とかはのぞいて考えた場合なんですが、早い時は数秒で完成します。何か月もかけてつくる油絵やインスタレーションとかとは全く在り方が違う芸術なんですよね。速さという点だけ考えると、写真も近いかもしれません。たくさんつくって絞っていくっていう行為をしているとしたら、それも写真に近いかもしれない。

書として使われるメディア(画材)も変わってきていますが、書の基本である墨汁と紙の場合、書き損じができない、というのがあるんじゃないかなと思うのです。もちろん、これは作品によるので、書き損じをそのまま残して作品にする場合もありますが、書の基本形態は、紙に向かい合い、一発書きで作品を残す、だと私は考えています。

つまり、この制作方法だと、重ね塗りや修正が可能な絵画とは「一本の線」に対する緊張感が違うんじゃないかなって思ったんです。写真家さんも、たくさん写真も撮るでしょうが、撮る瞬間の緊張感、集中力、瞬発力みたいなものが撮影の瞬間には宿るのではないでしょうか。

これはどちらが良い悪いというわけではなく、制作技法としての違いです。これがデジタルになると、描いたものを一瞬でなかったことにすることもできるので、技法としての意味合いがまた変わってきますよね。

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ロミコさんの作品を拝見すると、やはり緊張感をもって書いているように見受けられます。円を途中から継ぎ足してそうな痕跡が見えないからです。

書を通じて作品に向かい合う時に作家の持てるすべてが線に凝縮しており、それが他の画法とは異なる書「らしさ」なのではないかと考えさせられました。

3. 3点の形状の違いによりフォントとは違う文字のもつニュアンスが表現されている

作品単体での見方としておもしろいのが、円形に書かれているのですが重なっているので、この作品が「立体物」として見えるということです。

文字を思い出してもらうとわかりやすいですが、文字って基本的に二次元構造ですよね。飛び出した感じに書かない限り、普通に書くと二次元です。

よく聞く「円相」というのも、あんまりこんな感じで重なり合った竜巻状に表現されることがないと思うんですよね。(ただの〇はよく見る)

古来からいろんな「円相」が書かれていますが、立体的に書かれているものはあんまりないような。近年だとチームラボがつくった円相が二次元と三次元的な見方をデジタル上で表しています。

禅における書画のひとつ「円相」(円形を一筆で描いたもの)を空間に一筆(空書)で描いている。空間に描かれた一筆は、空間上で静止しているが、視点が動くことによって、円に見える瞬間が生まれる。
「空書」とは、チームラボが設立以来書き続けている空間に書く書のこと。書の墨跡が持つ、深さや速さ、力の強さのようなものを、新たな解釈で空間に立体的に再構築し、チームラボの「超主観空間」の論理構造によって2次元化している。書は平面と立体との間を行き来する。
(チームラボの解説ページより引用)

チームラボはデジタル技術を使ったチームなので「空間に書く」という行為を多視点で見られる円で表していますが、ロミコさんは書家という立場から円相を再解釈して立体形状の円相を生み出し、提案されているのではないでしょうか。

立体的な構造というのは、書家の山本尚志作品にもよく見られる手法です。

こちらは「マシーン」という作品ですが、構造物が立体形状になっています。平面に線のみで書かれた作品ですが、奥行きのラインが書かれることで、鑑賞者の中では「立体物」と認識されます。

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書の歴史について詳しいわけではないのですが、一般に「書」を想像した場合、作品は二次元なことが多い気がするんですね。絵画には遠近法など奥行きを出す技術が多く存在しますが、書に「奥行」を伝える技法があるのかは私は分かりません。

もともと文字から派生している芸術だとすれば、一作品の中に奥行きをつくるという考えがなかったのかもしれない。

そういう視点から考えると、平面の世界観の中で立体構造を見せたというのは、これまでの書の世界観からしたら革命的なことだと見ることもできますね。

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さらにこちらの3点の出展作を比べてみると分かりやすいのですが、円の向きや線の濃度が3つともぜんぜん違うものになってますよね。

審査では複数の作品を出さずに1点のみにしたほうがいいのでは、みたいな意見もあったようですが、ロミコさんの作品に関しては、3点あることで同じ円相であっても、その時の作家の状態によって全く違う作品となっていることが表されています。

文字を書く時も、手書きで書かれた「あ」は、毎回全く同じにはならないですよね。ありがとうの「あ」、あーあの「あ」、あけましておめでとうの「あ」。使われるシチュエーションによって雑にも丁寧にもなるはずです。

これがタイピングだと全部同じ「あ」なので、手書きの方が書く人の意図は情報として多く伝わりますよね。3点の比較によってそれが明確になっています。

また高さにも違いがあって、これ、一番上の作品は作品単体で見るにはかなり高い位置に展示されてたんです。

一般的な展示だと、目線の高さに横位置に展示することが多くて(海外だと身長が高いので、日本での展示より少し高めに展示されることも)、それを考えると、一番上の作品は「高すぎる」位置に置かれています。

だからこそ、3点が三位一体のインスタレーションのように機能しているんじゃないかと思ったんです。

エネルギーっていうのは、物理学の世界ではなくなることはありません。(正確にはエネルギーがなくなるという状態がこれまで観測されていない)

作家が作品を創る時に使った運動エネルギーが熱に転換され、作品に転写されたとして、こうして高さの違う展示方法によって位置エネルギーに転換されていったような(正確な物理学ではないんですが)、イメージも浮かびます。

他の表現方法はあるのか

最後に、もっといい表現方法があるのではないかという、よくありそうな批判に対して予防線を張っておきたいと思います。

書の正体は熱である

このコンセプトに対して、もっといい表現方法があるかっていったら、それはあるはずです。もっといい表現方法なんで、そりゃ全員にあるよ。私が考えている「社会治療」っていう医療概念についても同じくです。

でも、そもそも自分の哲学をつくるまでが大変で、それがある作家は迷いがなく作品について探求していくと思うんですね。

現代は「結果の判断」がとても速くなった時代だと思うんですね。一瞬で分かるような一枚画像、ぱっと見で読み切れるような文字数など、インスタントな情報で結論づけられちゃう時代です。でも、これはそろそろ終わりなんじゃないかと思っているんです。今すぐ結果を引き出すために、言葉を過激にして映像を過激にしていく手法には無理があるので、どこかで崩壊するはずです。

ART SHODO FESTAに出展してる作家さんは、みんな生きている作家さんです。ゴッホとかピカソとか、残された作品や記録から考えを類推するしかない作家ではなく、今、作家が生きて悩んでいる姿を知ることができます。

もともと、現代アート自体、作家や作品の価値はすぐには出ないジャンルだったはず。昔、若手の美術批評家さんに「アートの本当の価値を測るには100年では短すぎる」と言われたことがありました。

ここ数十年の人類の進化が、石器時代から現代までの進化を複数回繰り返すくらい加速してるみたいな話が確かこの本に書いてあったのですが(忘れちゃったよ)

もしかしたら100年も経たずに作品の価値が固定される日が来るかもしれません。でもそれは今ではないです。

自分の鑑賞法は創造的なのか

現代アートを楽しんで鑑賞する時、作家と同時代を生きているっていうのはとてもおもしろいことだと思うんですね。作品1点だけを見てあれがダメだこれがダメだとインスタントに言うことはとても簡単です。それはネットの中で頻繁に起こっていること。

でももしも現代アートを鑑賞者として楽しむのであれば、生きている作家をその可能性も含めて長い目で見る姿勢をもった時、鑑賞するという行為自体が大きく変わるんじゃないでしょうか。

いろんなエンタメがあふれている中で、なぜわざわざ現代アートの鑑賞を選んだのか。消費や反射のような鑑賞ではなく、自分にとって創造となるような鑑賞体験をしたかったからじゃないのか。

簡単に言うと、現代アート鑑賞は、作家の可能性を想像しながら長い目で作品と作家を追っていくという楽しみもあるよねってことでした。そういう意味でも、自分にとって書の可能性が広がった作品の一つでしたし、これからどんな作品をつくるのか、生きている作家の進化を、その懊悩も含めてこれからも追ってみたいと思わせてくれた素晴らしい作品でした!

ちなみにロミコさんはドラマや映画でも話題になった『トリック』という作品の書道指導や題字、野際陽子さんの手元吹替もされてた方のようです。
トリックシリーズ、大好きでめっちゃ見てました!すごいなー!

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