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写真という表現のリアリティとフィクションのはざまにいる人物のことを考える、遠藤励

ArtStickerから、遠藤 励さんの作品をStickerさせていただきました。

最初見た時、絵画かなーって思ったんです。ほんわかした抽象的な絵で、人が砂漠を歩いてるみたいだな―と。

素敵な色彩だなぁとぼんやり程度に思っていたんですが、マテリアルを見たら「Photography」とある。つまり、写真なんですよね。そこに驚いてしまった。こんなに絵のような感じで写真を撮るってできるもんなんだなぁと。

絵のような質感だけど、写真。

ここで気づかされたのは、「写真だ」と自分が気づいた瞬間に、この作品が「ノンフィクション」として自分に響いたということです。写真ならば、写真家が撮影していて、対象となったものがこの世に存在しているということ。

絵だったら「思い出を描いたのかな」「架空の場所なのかな」と思うこともできますし、実際の場所がモデルになってると考えることもできます。

でも写真の場合は、かなりの確率で「実際にあった瞬間」であり、作家も確かにそこに存在したんだというのを感じさせるんですね。

この作品が「Photography」でなかったら、ここまで感動がなかったと思うのです。バーチャルリアリティが台頭してきて、本物そっくりの人物とかもうまいことつくれるようになってきました。肖像を描いていた絵画も、徐々に内面的なものを表現するようになってきました。

本当にあったことと想像上のことは、どちらが大事とか重要とかではないです。感じる人にとってはどちらも大事ですし、その時によって大事なものも変わります。

ただ、写真というメディアの場合、作家がその場所に行き、それをこんな感じで撮りたいと思い、そして撮るという行為を行ったのだと分かるんですよね。

ネットで簡単に遠くの景色が見られるようになった今だからこそ、それでもそこに行って撮りたいのだという写真家の衝動みたいなものにとても感動したのです。

作品を絵だと思っていた時にはフィクションかもしれなかった人物も、Photographyだと知ったとたんにリアルさが増して感じます。

写真なのか絵なのか、はざまのような表現のおかげで、写真であるにも関わらず、作品の人物をフィクションとリアルのはざまに置いて揺らがせているようです。

絵だと思っていたけど写真だと気づいてさらに作品を見返した時に、とても気づきが多い美しい作品でした。

写真という表現の魅力、新たな側面を教えてもらえた気がします。

OumaのArtStickerコレクションはこちら。作品を見て感じたことを描いているので、よければのぞいてみてくださいね。

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