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デジタル技術による人間の拡張について考える

改めまして、獣医から現在、現代アーティストをやっているOuma(オーマ)です。

これまで個人に向かっていた医療を、個人を取り巻く社会環境に向け、個人と社会を合わせて治療していくべきではないかというのが、自分の創作活動を通じたテーマです。

これを私は「社会治療」と呼んでいます。

社会を治療対象とする、という考えは、結局のところ治療対象である人間が拡張しているっていうことなんですよね。環境は自分に影響を与えるものなわけではなく、すでに自分の一部であるという感じです。

たとえば、何かを考える時、私は必ずテキスト入力するんです。ノートにメモをするみたいな人もいると思うんですが、なんかのソフトウェアを使って考えるみたいな人もいると思うんです。

自分の頭の中だけで考えているより、文字を視覚的に見ながら考えている方が、脳科学的にも考えが進みます(確か茂木先生が書けと言っていた)。アウトプットとインプットが同時に起こるからです。人間はアウトプットすることで自分の考えたことをさらにインプットして深めることができます。自分の脳の中のことなのに、一度外に出さないと脳内のみで考えを深めるほうが難しいんですね。

アウトプットするということは、自分の考えを客観視することだと思います。テキスト入力で考えるというのは、この主観と客観が同時に起こっているということなんですね。今もこうして文章を書いていますが(もちろん音声入力でもいい)、自分の文章を自分で見ながら書いているので、そこに客観性が生まれています。つまり、アウトプットとインプットのサイクルがノートに手書きするより圧倒的に早くなってるんです。キーボード入力なら、自分が考えているのとほとんど同じ速さで思考が見えますからね。

どこかに出かけた時に、だいたいの人は写真を撮ると思うのですが、そのままSNSにアップする人も少なくないはずです。「最高!」みたいにその時の感想も添えて。行った場所の感想や写真がアップされ、他の人に共有されています。

自分の記憶はすでに脳の中には保存されておらず、外部化されることで検索しやすくなっています。またこの行為により、主観と客観が同時に起こっています。

すでに私たちは長い時間をネットの中で生きていますし、ネットでのコミュニケーションの方が慣れているようなところもあります。自分はネットで出会った人とリアルに会ったこともありますが、どんな出会い方であれ、人と人との出会いは同じだなぁと思っていたりします。

私は自分の脳内でなく、外部デバイスによって考えており、いつの間にか自身の脳が外部化しちゃってるんですよね。

最近の作品シリーズでは、作品内には実際に自分がいった場所の写真が入っています。そこで聞いた音を日本語に変換したアナログ作品の写真も入っています。その上で、その土地で感じた雰囲気を創作文字と創作オノマトペで表しているんですね。これは私の感情であるし、感覚なんです。

日本のカルチャーが初音ミクっていう存在を生み出していますし、Twitterアイコンをイラストにしてる人も多いですよね。デジタル世界に移行した「自分自身」では、自分の身体を好きに選ぶことができます。その世界では性別だって年齢だって人種だって気にすることはありません。

これはカルチャーとして身体性の放棄が起こっていると言えるんじゃないかと考えました。

そういう意味で、みじんこは拡張したOumaが獲得したデジタル上の身体(アバター)なんですよね。

社会治療は人間の拡張性を指摘し、拡張された人間への治療が医療であると指摘した概念だと言えます。

・・・ってアートのプレゼン機会があった時に言うぞ!これは覚書でした。(忘れそう


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