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種の遺伝子としての言語によって社会を突然変異させることについて~Independent TOKYO出展VIKI作品から考えたこと

2021年1月9日から個展が始まるVIKIさんが、2020年末にタグボート主催のアートフェアIndependent TOKYOに出展していた作品から、考えたことをまとめてみたいと思います。

VIKIさんはレシートを使った作品で知られているアーティストさんなんですが、ものすごく努力家なんですね。ものすごく勉強してるし作品つくりつづけてるなっていうのが、作品や作品のコンセプトからにじみ出ていて、素晴らしいなと思います。

社会の状況変化への即時対応にしろ、展示空間のつくり方などは、ふだんから考えて努力しつづけてる作家でないとできないことだなぁと思っています。自分も見習わないといけません。

絵の配置や空間づくりに、細かく意図が張り巡らされているので、宝を探すように楽しみながら読み解けるのが、VIKI展の魅力ではないでしょうか。

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Independent TOKYOに出していた作品について、いろいろ解説も伺ったのですが、ここではいったん、自由に考察を広げてみたいと思います。

結論からいうと、「種の遺伝子としての言語を突然変異させることで、社会に漂う概念を細かく調整する時代になったのかもしれない」というのが、VIKI作品全体を見て感じたことでした。

では、くわしく考えていきます。

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まずこちらの2つの作品。顔がほとんど同じ感じ(左右反転しただけっぽい)の人物に、セーラー服っぽい服と学ランっぽい服が描かれています。でも、身体が4つに分割されているんですね。学ラン姿のほうは、胸元のところが横の壁側にずれてしまっているので、正面からみると胸だけ抜けてるように見えます。

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ドットがマンガ的であり、4つに分割しているところについては四コママンガを意識してるとのことだったんですが、なんかDNAっぽいなと思ったんですね。

DNAって基本的に4つの塩基(ATGC)でできていて、ちょうど2組がセットになって並んでいるので、そんな感じがするんですね。

この作品のおもしろいところは、顔や足の形状が両者はほぼ同じなのに、服装が違うだけで、「男」「女」っていう思い込みが発生するところです。ぼーっと見ると、学ラン姿が男、セーラー服姿が女な気がしてしまいます。

昔、男性用トイレを赤で表示、女性用トイレを青で表示すると、男女を間違ってしまう人が増えるみたいな心理研究について見たことがありました。

分かりやすいアイコンがあると、とりあえずアイコンが示している通りに認識してしまうということです。

出展中に、VIKIさんが「イケメンって書いてあると、自分にとってイケメンと感じてなくても、イケメンとして捉えることが強要される」ことについて話していました。

まさしく今、自分はイケメンたちが登場するマンガを描いてるんですが、冷静に考えると、ここで「イケメン」と称しているのは、ロボットとドラえもんの着ぐるみを着てる子と犬と紫のぬりかべなので、別にイケメンではないんですね。めちゃくちゃ抽象化されたなにか、です。

でももう、言葉で「イケメン」って言ってるので、読者にも「イケメンとして読んでくださいよ」っていう強制をしているんです。実際にそうかどうかはともかく、言葉で定義したことで、他者との共通認識をつくれるということです。それがいいか悪いかはともかく。

この共通認識の設定というところから、言語は強制的ではあるけれど、「種の遺伝子」として機能するものなんだなというのを気づかされたのです。

人間がこれだけ発展してきたのは、自分たちが学んできた知識を、言葉によって次世代に伝えることができたからです。他の生物は個人がもつ遺伝子でしか進化できないけど、人間は言語を遺伝子のように機能させることで、種としての進化をとても早めることができました。

科学の分野で「巨人の肩に乗る」という表現がよく使われますが、まさしく上の世代が構築したことを、下の世代が引き継いで発展させていくことによって、種(巨人)として生きられるのが人間なんですよね。

そしてその巨人の遺伝子として機能するのが言語だというわけです。

言語はよく感性と比較して語られることがありますが、言語は種の遺伝子(種の保護)、感性は個人の保護という機能の差があるんじゃないかと考えました。

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2つずつ対で並べられている作品と、ブース自体が白い膜で覆われているあたりが、核膜に包まれた遺伝子を表しているようです。また、↓こちらの2枚の作品は、絵の一部が交換されているんですね。言われてみると確かに3枚目がずれています。

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この交換という動きが、DNAからRNAへの転写を表しているみたいだなぁと。こちらの作品はパーツごとに袋みたいなのに入れられていて、分断されています。この辺りは、1つであるはずの世界で移動が困難になった現在の状況を表しているかのようです。

言語というのも、他者への伝達機能がありますが、同時に意味を固定し強制する部分もあります。「男」と言われた時に、「男」が意味するイメージは時代によって微妙に移り変わると思うのですが、「男」が「女」を意味することはきっとないですよね。

解剖学者の養老 孟司先生の言葉がとても好きなのですが、養老先生は名前をつけることで「分かった気になる」ことについて著作で語っていたんです。解剖学っていうのは、見つけたものに名前をつける学問でもあり、耳だと言われたらそれは耳になるんですが、実際に「耳だけ」を完全に切り取るってできないんですよね。耳と顎の下の皮膚の境って正確に分けられないじゃないですか。

種の遺伝子としての言語は、伝達という役割を担うために、このような境界部分の存在を、存在しないもののように扱っている側面があるんじゃないかなと思ったんです。

タイには性別が18種類あるという話がありましたが、「男」「女」とおおざっぱに分けられて、その他のものが言語化されていないと、2種類の性別だけがピックアップして感じられ、まるでそれ以外が存在しないように錯覚してしまいませんか。

特に、自分をカテゴライズする言語、性別や年齢、国籍などは、繰り返し自ら伝えなければならない機会が多いですよね。自ら〇〇です、と言い続けることで、あいまいでいることが許されなくなることはないでしょうか。

もしも私たちが年齢を認識せずに暮らしていたら、自分は年を取るのでしょうか。アラサー、アラフォー、アラフィフ、ゆとり世代、団塊の世代。私たちはカテゴライズが好きなのかもしれない。それはなぜでしょうか。分かった気になりたいからなのでしょうか。

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作品に描かれている人物は、男女が非常にあいまいではっきりしていません。アイコンとしての服が着せられている人物たちのみ、もしかしたら男なのかも、もしかしたら女なのかも、という判断がつくけれど、それは作中の人物が本当に望んでいるカテゴリーなのでしょうか。

セーラー服を着ている男性がいてはいけないのか。
学ランを着ている女性がいてはいけないのか。

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20年前はなかったような職業がいっぱい生まれて、昔はあった職業がいっぱい消えるような時代になりましたよね。どこかの会社に勤めて一生安泰っていうことはなくなったと言われています。

環境変化が大きい時代には、環境に適応できるカタチを探るために遺伝子の突然変異が起こりやすくなりそうです。がん細胞を誘発することもありますが、突然変異は生物の進化を後押しもしました。

個体ではなく種を考えた場合、種の遺伝子である言語の突然変異を起こすことで、生きやすくなる人々がいるんじゃないかなって思ったんですね。

たとえば、延命治療って言われるとなんか生かされているような気がしてしまいますが、緩和ケアと言われると前向きに生きるための治療のような気がします。

差別的な言葉が使われなくなることで、差別にまつわる概念ごとなくなることがありますよね。現代では南蛮人とか言わないわけですし。

私たちはもっと、今の私たちに合う適切な言葉を、突然変異を促すように繰り返し繰り返し探しまわってもいいのかもしれません。同時に、自分にとって生きづらい言葉は、自分が生きやすいように創り変えていっていいのかもしれない。

言語が種の遺伝子だとするならば、私たちはどんな意味をもった言葉を次の世代に遺したいのでしょうか。便器上必要とされていた自分に付随するデータやカテゴリは、本当に必要なのか、なぜ必要なのか、自分で選んだり創り変えることは本当にできないのか。

伝達機能をもつ言語は、固定的な意味を内包していて、それを分離することができないのであれば、新しい言語によってアップデートしていくことが必要なのかもしれない。なにが適切かは分からないですが、言語を変えることは概念を変えることでもあり、それが切り替わるだけで、シンプルに生きやすくなる人もいるのかもしれません。その試行錯誤を、もっとやってみてもいいのかもしれないって思いました。

というわけで、VIKI作品展を通じ、「種の遺伝子としての言語を突然変異させることで、社会に漂う概念を細かく調整する時代になったのかもしれない」と考察しました。

細やかにいろんなところが考えられている展示なので、自分にとっても学びがとても多かったです。ありがとうございます。

VIKIさんのArtStickerはこちら。

タグボートアーティストさん以外の作品から考えたことはこちらにまとめていますので、もしよければどうぞ。


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