見出し画像

甘いものを上手につくれる女の子の「私が死ぬ日を決めた時」の話

 世界各地にたいざいしながらアート制作するプログラム、アーティスト・イン・レジデンスで上海に滞在していた時のこと。私がいた時には十八人のアーティストが同じホテル内に住みながら制作をしていた。近くのギャラリーのオープニングで出会った中国人のアーティストが中を見学したいと言っていたので、私は待ち合わせてアトリエエリアを紹介する。作業中だったアーティストが何人か、快く内部を見せてくれた。

 一通り見終わった後、私たちはキッチンスペースに戻る。キッチンではコーヒーや水がいつでも自由に飲めるようになっている。私はコーヒーを二杯分注いでテーブルに置く。彼女は花を添えたようなスイーツを持ってきていて、聞いたら手作りだと言っていた。
「食べるより作る方が好きで。持って行くと喜んでくれることが多くてさ。もし、甘いものいやじゃなければ」
 甘いものが大好きな私は、大喜びでお皿とナイフを出す。彼女が切り分けてくれたスイーツは、レモンのチーズケーキで小さな花がデコレーションとして散りばめられていた。
「いただきます!」
 両手を合わせてお礼代わりに日本語でいただきますと言うと、私はさっそくケーキの端をスプーンですくって口に入れる。レモンの鮮やかな香りが口の中に広がり、チーズケーキのやわらかい弾力がそれにつづいた。
「わぁ、すごいおいしい。ありがとう」
「そんなに喜んでくれると、作り甲斐があるね」
 彼女は何度も作ったことがあるらしく、手早く食べていくが、私は一口一口を今生の別れのように味わい切りながら口にした。
「こんなの作れるなんてすごいなぁ」
「うふふ、実はね。私が死のうとしたのを止めてくれたのがこのケーキなんだ」

「えっ? 死のうとした?」
 私は英語を聞き間違えたのかと思って聞き返す。彼女はうなずいて、数年前の話をした。
「私、数年前に本気で死のうって思ったことがあったのね。今考えると大したことないというか、よくそれで死のうと思うまで思い詰めたなって思っちゃうくらいなんだけど。だけど、その時はもうそれしか選択肢がないみたいに思っちゃって。自分が生きててもしょうがないし、誰の役にも立たないならせめて土に還って役に立ちたいって」
 私はケーキを削りながら彼女の話を聞く。
「でね、私って計画的に物事を進めるタイプだから、死ぬ日をまず決めたの。一か月間準備して、それで死のうって。それまでに身の回りの整理とか、いろんな契約を解約して後の人が困らないように、みたいな」
「仕事みたいだ」
「ほんとそれなの。締め切りが迫ってくるぞ、みたいな気持ちで準備し始めたの」
「死にそうな人にはとても思えない」
「決められるまでは辛かったのよ。でも、死ぬって決断できたら楽になったの。すごく楽になった。もうこれで解放されるって思ってね。で、あっという間に三週間くらいは経っちゃって、残り一週間になった時に、自分の時間がぜんぜんなかったことに気づいちゃったのよ。人生最後なんだよ? おいしい物食べるとかさ、マッサージに行くとかさ。大好きな本を読むとか、ここまで頑張った自分にご褒美をあげてもいいじゃない?」
「ほんとだよね。なんかあげた?」
「ケーキをね、死ぬほど買ったの。私、きれいなケーキを見るのが好きなの。食べるのも好きなんだけど、ケーキって見てるだけで幸せにならない? 誕生日とか特別な時に出されるものだし」
「おお、すごい幸せそう」
「すごい幸せだったのね。でも、もう太っちゃうとか気にしなくていいじゃない? 翌日にはケーキづくりの本を買ってきて、材料もかなり高いやつをいっぱい買いこんでさ、自分のためにケーキを作り始めたの」
 彼女はその頃からアートをやっていたので、創作意欲に火がついて凝りたくなってしまったのだろう。
「どうせ死んじゃうから、お金を残しててもしょうがないじゃない? だから、泡だて器買って、デコレーション用のものもいろいろ買って」
「すごい情熱」
「死ぬって決めた日の前日はね、家はケーキの匂いでいっぱいだった。どうせ死ぬと思うと、部屋が散らかってても気にならないのよね。ベッドの上にケーキの本を置いて一日でいくつも作った」
「食べきれたの?」
「うん。甘いのばっかりじゃなくて、サラダっぽく作ったりもしたから。でもその一週間はほとんどケーキが主食だったよね。すごく満足したわ。それで当日になった」
 彼女がもともと、死ぬって決めていた日。調理器具を片付け、出かける前に彼女は残っていたケーキを口にする。

ここから先は

1,446字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

ここまで読んでくださってありがとうございます! スキしたりフォローしたり、シェアしてくれることが、とてもとても励みになっています!