7月の月曜日「セミ事件」
実は先日の夏祭りのあと、事件があった。隣駅の商店街で四年ぶりに開催された夏祭りから家に帰る。帰宅して、僕はすぐにトイレに行き、妻と娘が先にリビングへ。備え付けの手洗い器で手を洗っていると、リビングから妻の悲鳴。何事かと思いリビングへ急ぐと、カーテンに大きなセミが鎮座していた。静かに、ただ静かに。
我が家は中古マンションの七階。幸いなことにゴキブリの類はまだ一度も出ていない。妻が常日頃から清潔にしてくれているからというのもあるだろうけれど。しかし、それゆえに、殺虫剤の類を常備していない。はやく何とかしてぇ〜、という妻。しかし、僕には長年の一人暮らしスキルがある。殺虫剤の代用品として、使えるものがあることを僕は知っている。そう、洗剤だ。
Gの表面には油膜があり、洗剤がそれを溶かす。そうすると呼吸口が塞がり、奴らは窒息するのだ。食器洗い用でも構わないが、僕のおすすめはお風呂洗い用。スプレータイプになっていて、広範囲を狙うことができる。僕は一人暮らしを九年くらいやっていたので、この手法での撃退は何度もやってきたので実績もある。まさに腕の見せ所、というわけだ。
慌てふためく妻と娘をよそに、冷静沈着に僕はお風呂場へ。バスマジックリンを手に、颯爽とリビングに戻る。まぁ、任せておきなさい。Gではなくセミだけれど、恐らく大丈夫なはず。狙いを定めて、レバーを引く……! しかし、その瞬間-------ッ!
「やめて!」
「え? なんで?」
「カーテンが汚れる……ッ!」
「え、いや……、え?」
お風呂用洗剤を手にした僕を見て、カーテンが汚れるからやめて欲しいという妻。いやいや、この状況で何を言っているんだ? それにこれは洗剤だ。掃除をするためのもの。それがカーテンに付くことを「カーテンが汚れる」というか? オイオイ、勘弁してくれよ、これだからトーシーローはヨォ! と思っていると、おもむろにコンビニのビニール袋を手渡してくる妻。
「え、なにこれ?」
「これで取って」
「え? これで? 近づいてこれで捕まえろと?」
「そう。それでこの袋の中で、洗剤やって」
「What’s?????」
いやいや難しすぎんだろ。ノーマルだと思っていたミッションの難易度が爆上がりだ。ベリーハードどころじゃなくエクストリーム。さっさと銃で仕留めたいハンターと、あくまで捕獲に拘る学者先生みたいなやりとりをしてしまった。しかし妻の意向なので従う。ドキドキ……。しかし案の定、寸でのところで逃げられ、あろうことかエアコンの中に入ってしまった。オーマイガー! とりあえずエアコン内部から出さないといけない。表面を何度か叩くが反応はない。しかし、流石にエアコンの内部に洗剤を撒くわけにもいかない。どうしたものか。そこで僕はひらめく。何も殺虫剤でなくてもいい。何かスプレーがあれば……! そこで目をつけたのが、虫除けスプレーと僕のギャッツビーのデオドラント。虫除けスプレーの方がセミに効きそうではあるが、後々のことも考えて、デオドラントを選択。エアコンのカバーを外して、デオドラントをスプレー噴射する。グレートギャツビー!
たまらず出てきたセミはフローリングの上に落下。
カーテンもカーペットも布だから、洗剤が染みてしまうのが嫌なのは僕も判る。
でも、ここはあらかじめ捲っておいたフローリング。
あとでペーパータオルか何かで拭き取れば良い……!
「今よ!」と叫ぶ妻。
バスマジックリンのレバーを握る。
狙いを定めて、
噴射。
泡。
屈辱も、栄光も、
敗北も、勝利も、
そして、生も、死も、
すべてが美しい。
ひっくり返り、激しくバタつかせていた足が、段々とゆっくりになり、やがてもう動かなくなった。バスマジックリンの独特な酸味の強い匂いの泡の中で、悶え果てた悲しきシケイダ。ペーパータオルでくるんでビニール袋に入れる。
お前さん、なにもこんなところに入り込まなくたって、良かったのにナァ。
まだ夏は、これからだってのにヨォ。
不幸と踊っちまったんだナ。
カーテンを開けると、夜空には星が瞬いていた。
あれが、
デネブ、
アルタイル、
ベガ、
包まれたpaper towel、
コンビニ袋のクシュ音、
外されたエアコンカバー、
捲れてしまったカーペット、
倒れたギャツビーのスプレー、
君と、
夏の終わり、
将来の夢、
大きな希望を忘れない。
おわり。
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