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【短編小説】 路地裏には夢が

「ほんっとに、あたし悪くないのにさ、偉いから、謝ったけど」
「ごめん。彼帰ってきたから、電話切るね」
「あ、うん。遅くまでごめん」
ユリカとの電話を切り、でっかいため息をついた。今日は久しぶりにお客さんに怒られた。あたし悪くないのに。でも大人だから謝った。偉い。
幸い今日は金曜日、明日は休み。少し遠回りをして体力を消耗させて、早く寝て忘れよう。
それにしても。家からほんの少し離れたところで、こんな素敵な夜景が見れるなんて知らなかったなあ。
車は速度を出してビュンビュン通り過ぎてゆく。遠くに、電気の消えた倉庫みたいなところから出てきて、足早に駅の方へ向かって行く人が見えたけど、他に人の姿は見当たらない。
いいなあ。誰かの待つ、帰る家のある人は。
この工業地帯と向こう側を結ぶ長い長い橋の上でぼうっと、そんなことを考えていた。
さ、帰るか。
ここがどこか、家まで何分くらいかかるのか、見当もつかなかった。工業地帯の息を呑むような夜景に別れを告げ、海の匂いのしない住宅街へ歩みを進めた。 あたしにも、待っている人がいればなあ…。
「キャッ」
驚いてもう少しでつまづくところだった。
「す、すみません…」
住宅地のボロアパートとボロアパートの間、猫だけが通れる隙間に、男の人が挟まっていた。なんでそんなところに。どうやって。
「あの…ここから出してくれませんか」 辛うじて出せた彼の左腕を、綱引きみたいに自分の体重をかけて思いっきり引っ張った。
「うああっ」 男の人の変な声に少し恐怖を感じたが、とりあえず脱出出来たようだった。
「すみません。本当にありがとうございます」 と言ってから彼は顔を上げた。
…ウソっ!いや、ホンモノだ。あたし何度も会ってるから。
「えっ、あの、えっと」 妄想で何度練習しても、本番はやはり狼狽えてしまうものなんだな。
「池田くん…Hop Step Jumpsの、池田くん、ですよね」
彼はうん、と小さく頷いた。
「あたし、大好きなんです。この前の横アリ行きました!えっ、でも、どうしてこんなところに?!」
「ちょっと、色々あってね」
「ああっ、そうですよね、言えないこともありますよね、聞いちゃってすみません。ってか、大丈夫ですか?ここ、駅から遠いんですけど、帰れますか?」
「大丈夫です。これからタクシーで帰ります。ありがとうございます」
そっか、池田くんが電車なんか乗るわけないのだ。電車なんか乗ったら騒ぎになっちゃうね。
彼が呼んだタクシーが来るまで、いつから推してるとか、好きな曲とか、池田くんの好きな飲み物とか、服のブランドとか、血液型とか、兄弟の名前とか、時間の許す限り質問した。やがてタクシーがやってきて、あたしは見えなくなるまで手を振り続けた。夢みたいな時間だった。
今日あたしを怒ってきたお客さんはあたしでストレス発散できてよかったし、あたしは池田くんに会えて、win-winじゃん!こんな毎日も池田くんのおかげ。生まれてきてくれてありがとう!
推しが尊い毎日、最高!

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