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【短編小説】 エレベータ


「お疲れさまでしたー」
「お疲れさま、気をつけて」
先輩と同期と別れ、2回左に曲がり、さっきまで飲んでいた店のちょうど裏に着いた。呼んでおいたタクシーに乗り込む。
金曜日といえどもてっぺんを過ぎたというのに煌々と明るいこの街は、端的に言ってどうかしていると思う。遊ぶには適した街だが、ここに居を構えるのはゴメンだ。
タクシーは20分で自宅マンションまで送り届けてくれた。エントランス横のコンビニは夜には閉まっていてもはやコンビニではないが、彼らだって営利企業なのだから儲けのない時間に営業をしないのは当然の判断だろう。
管理人さんに軽く会釈をしエレベータに乗り、1503号室の扉を開けた。ああ、自由だ!!着ていた服をすべて脱いで洗濯機に入れる。そのリズムで手を洗い、風呂場のドアを開けた。沸かしたての風呂の匂いを嗅ぐために風呂を沸かしているようなものだ。いやそれは違うか。雑に音を立てて湯船に入る。
第一志望の会社に入り、人間関係にも恵まれ、評価も十分で、叩いても何の不満も出てきやしない。だが、7時半に起床して仕事をし、飲んで帰宅が25時ならば、すべての時間が快であっても疲れは来るのだ。
気の済むまで風呂を堪能し、キングサイズのベッドに横になる。数年前に奮発して買ったJBLのスピーカーからはお気に入りのジャズが流れているが、聞き入ることなくすとんと眠りに落ちてしまった。


翌朝、同期の誘いを丁重に断って向かった駅ビルの本屋は子供連れで賑わっていた。参考書コーナーはやはり平日夜に来るべき場所だ。お受験戦争に向かっていく戦士たちを横目にビジネス書コーナーで数十分立ち読みし、昼時になりレストランフロアに移動するとこちらも大盛況であった。最近開店したというイタリアンレストランに名前を書く。しばらく待っていると誰かと私が続けて呼ばれた。その人は私と同じ体格で、お一人様というところまで同じだった。
中に入ると天井の高さが想像の3倍はあって面食らった。2フロアをぶち抜いて作られているらしい。ウエイトレスがどうぞとにこやかに左手を挙げている。促した先にあったのは下りの階段だった。高い天井を見上げて首を傾げながら、前の人に続いて一段、二段と螺旋階段を降りていく。
「乗って乗って」
しばらく洗濯をしていない汗ばんだシーツのような服を着た丸顔のおっさんが叫んでいた。前の人に続いてエレベータに乗り込んだ。なんだこれは!やけに騒がしいと思ったらエレベータ内には朝の満員電車みたいに無数の人間が乗っていた。赤ん坊から年寄りまで、様々な人間が。降りようとしたが後ろからまた無数の人間が乗り込んで来ていてもう後戻りもできない。くそう、テロだ。大量に人間を集めて毒ガスでも撒くつもりなんだろう。こうやって罪のない人間が殺されていくのだ。毒ガスを撒かれる前に窒息死しそうなくらいに空間に人間が詰め込まれていく。残された時間は多くないと悟ったが、右も左も前も後ろも人間に囲まれてスマホすら出すことができない。終わった。さようならも言えずにこの世から去っていくというのはこんなにも無念なのか。
ブーとアラートが鳴り響き、さっきのおっさんがドアを閉めます!と叫んだあとドアが閉まった。人間に潰されていてエレベータが上昇しているのか下降しているのか、もはや動いているのかさえ掴めない。長い時間が過ぎたあと、ドアが開いて数人が降りていったようだった。エレベータはそれを何度か繰り返していく。徐々に自分の周りに隙間ができてきたが、まだカバンのスマホは出せそうにない。
「何階?」
頭上でそんな声がしてはっと顔を天井にやると、点検口のようなところからおっさんが体を出していた。咄嗟に2階ですと答えると、おっさんは天井の中に消えてしまった。どういうことだ?周囲の人間を見渡したが、皆まっすぐ前を見ていた。乗ったときは騒がしいと思っていたが、そういやもう声も音も聞こえない。皆自分の運命を受け入れたのだろうか。
エレベータは相変わらず上昇しているのか下降しているのかわからない。いつになったらここから出られるのだろうか。乗り合わせた人たちは誰なんだろうか、全員あのイタリアンレストランに入ろうとした客なのだろうか。そしてこのエレベータを作った人の思惑はなんだろうか―様々なことが頭を駆け巡るが何一つ分かりやしない。そしてさっき己の口から飛び出した2階というのは何の階なのか。自分のことがわからないのだから他人のことはもっとわからない。
ピンポンと音が鳴ってエレベータが止まったようだ。白い光が遠くに見えた。また数人が降りていく。
「2階ですよ」
隣の青年が左肩を叩いてそう言った。本当ですか、ありがとうございますと言って白い光の方へ走った。2階は何の階なのか未だにわからないが、自分が降りるべき階に違いない。そう信じて走る。周囲の人がさっと道を開けてくれた。白い光がどんどん大きくなっていく。ついに外だ!だがドアが閉まりかけている!右足にぐっと力を入れて床を蹴った。背中でドアが閉まる音を聞いた。あと一秒遅ければ挟まれていただろう。
肩で息を吸う、吐く、吸う、吐くを繰り返すと徐々に視界から色が戻ってきた。これは!あのマンションの15階だ。後ろを振り返る。間違いない。いつものエレベータだ。恐る恐る下矢印のボタンを押した。ほら、この、少し遅れて戻ってくる感覚は間違いない。よかったー!と大声が出てしまいそうだがぐっと我慢して1503号室へ全速力で走った。ドアの前に着き息を吸って吐く。自分の家でありますように。カバン、自分のものだ。鍵、これも見慣れたものだ。ドアに触れると解錠された音がした。もう一度願う。自宅でありますように!
引いたドアから飛び込んできたのは確かに覚えのあるルームフレグランスの香りだった。畳んでいた寝間着もクローゼットの中身も最後に見たときと同じだ。あーよかった!今度は人目も憚らず大声を出した。キングベッドに背中を預けた。生きてる!
体を起こし、カバンからスマホを出した。同期からまた誘いが来ていた。


「えー何その話。つまんない」
生死を彷徨って奇跡的に生還したという話をまさかつまらないと片付けられるとは思っておらず、真意を確かめるために左隣の彼女を見た。運転中だから当たり前だがこちらをちらりともしない。
「一人で難しいことばっかり考えてるからじゃない?もっとさ、気楽に生きようよ」
「気楽に生きるって?」
「知りたい?」
赤信号で停まった彼女がたっぷりな笑顔で言う。
「あたしと付き合ってくれたら、わかると思うよ。どう?」
こういう強引さは彼女のいいところで、この気質のおかげで多くの成果を挙げてきた。彼女のことは、仕事仲間としてとても尊敬している。だけど、恋愛関係になるというのは、なんというか、ダメなんじゃないか。
「大丈夫。あたしたちずっと前から、付き合ってるって噂されてるから」
あまりに真剣な顔で彼女が言うので、おかしくて思わず笑ってしまった。全く論理が成り立っていないが、正しく思えてくる。それでいいのだ。彼女の言いたいことがわかった気がした。
「そっか。それなら、いいか」
「ありがとう」
彼女が右目から涙を流したのが見えて、カバンからハンカチを出した。お気に入りの柔軟剤の香りがして、生きてる、と思ったのは生まれて初めてだった。

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