LGBT問題に対する新たな視点

 昨今の風潮は性的マイノリティに対する偏見撲滅の方向に働いているようである。これは、良い兆候で、いずれ偏見というのは無知と同義語であり、百害あって一利なしの代物であるから、大いに推進せしむべきものである。

 よって、ここではそのような賛成あるいは反対といった無内容の次元で性的少数者について考えるではなく、その少数者を生み出す社会的条件について少し考えてみようと思う。
 
 ベトナム戦争反対を掲げたベ兵連を組織し、多彩な作家活動で若者の指示を受けた小田実は、ベストセラーになった自著『何でも見てやろう』で、ゲイに関する興味深い意見を開陳している。

 小田によれば、ゲイとはその頃猛威を振るった画一主義(今もその影響は変わらない)に対する反抗であり、当時の反体制的なあぶれ者集団であるビート族と同じ動機を持っている。反体制の旗印を振りかざしているが、その割には良くも悪くも社会に対する影響力は乏しく、社会という集団から逃避し、また別の集団に組み込まれたに過ぎない人たち、という辛辣な言い回しである。

 しかし、小田は、そのような現実からあぶれ出た少数の人たちに対する共感を覚えている。むしろ、そのような人たちを生み出した社会の抗し難い大きな力を問題視している。

 性的少数者が市民権を得ようと社会に躍り出たのは、戦後に至ってである。オスカー・ワイルドやマルキ・ド・サドなど社会に顔を出し、当の社会から葬られた個人もいることにはいたが、現在のように集団をつくるには至らなかった。
 
 性的少数者の市民権確保運動の勃興は、時代が進んだからだと楽観的なに片付けることができないことはないが、私は小田の言うように、画一主義の大きな波に対する人間の消極的反抗が生み出した近代の病弊の一種であると考える。

 病気と言うと誤解されるだろうが、現代に特有の徴候であるという点で病弊なのである。性的趣向は先天的であるよりも、育った環境による後天的な要素が拘ることが大きい。おそらく、この点は誰もが認めるだろうと思う。ゆえに、精神分析は分析の手がかりを幼年時代に置く。
 
 思えば、精神分析ですら近代人の鬱屈した心理を分析するために生み出された方法である。人間は必要なものを生み出していくのである。たとえ、それが法律であっても、学問であっても。よって、LGBTに対する思考は、近代という現象そのものを扱うものでなければならない。そこから、新たな視点が生まれるはずだ。

 最後に、もう一つ小田実の面白い発言から引く。小田はアメリカを旅行した際に、ゲイカップルの多くが一方が男性、もう一方が女性というような役割分担をしているわけではないことに注目している。彼が見たのは、逞しい体格の自立した男性ばかりだったのである。

 この事情を日本に照らして考えてみると、全く異なる反応を得られるであろう。日本にも古くからホモ・セクシュアルがあったのは周知の事実であるが、その実態は男が女の格好をする、なよなよとした態度をするといった性的倒錯の色合いが強いのである。少年愛というのは実際、男でも女でもない中性的な状態を好むものであり、多くの場合、少年は少女の役割を担う。

 この点がアメリカと日本と異なる点である。一方では、性別二分法を超えた価値観があるのに対し、もう一方はいまだ男か女かの二者択一である。

 夜伽に遣わされるのは、少女のような少年。少女漫画に描かれるのは女のように美しい男であるし、凛々しい態度の背が高い女の子は、女子校ではちやほやされる。男の向こうに女を見、女の向こうに男を見ているのである。

 このような視点を加えれば、性的少数者の問題も、一枚岩ではなく彼我の事情の違い、単なる流行なのかどうか、文明のもたらす副産物であるかどうかなど、広い視点で眺めることができるに違いない。

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