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理想の自分について考える

少しお久しぶりです。
気づけば段々と夏の気配を感じる季節が迫ってきていました。速いことで、今年も半分に差し掛かっているのも事実。

なんといっても、たまに訪れる憂鬱や怒り、悲しみの感情に飲み込まれそうな自分を慰めたくなるような季節でもある。(世で言う5月病?)

仕事も色んなことがあって、プライベートも少しずつ変化して。
その中で「私は何もできないのではないか」と思うことも増えた。誰かに慰めてもらいたい訳ではなく、純粋にそう思ってしまう。

そんなネガティブキャンペーン中だからこそ、理想の自分について考え直してみようと思う。


1|寛大であり、心に余白がある人

理想の自分は、心に多くの余白がある。
簡潔に言うと、幸せな人は余裕がある人だと思うから。どうしても人は、周りと比較して自分自身の惨めさを感じてしまう生き物。
その中でも「私は私である」という紛れもない事実を胸に、どんなことが訪れてもブレない心を持っていたい。


2|こだわりと、受容できる強さ

自分だけのこだわりは、絶対に譲らないこと。その中で、どれだけ周りの人のことを受容できるかも同じくらい重要だったりする。
唯一無二の存在になりたいと誰しもが心のどこかで思っているだろうし、これまでの人生で一度は思ったことがあるだろう。

誰かに勝つ必要は全くないけれど、誰にも真似できないこだわりを持つ。そして、周りの人を認めて受け入れられる、そんな強さに憧れている。


3|人に期待はしないけれど、やっぱり期待していたい

これまでの学生・社会人生活の中で、人に期待をすることを諦めてしまった部分がある。期待するということは、その結果がどうであれ相手には全く責任がないもの。
あとから「あの人に裏切られた」と感じてしまうのは、勝手にこちらが期待していたから。そうは分かっていても、信頼していた相手が想像とそぐわない行動をするのは悲しいことだし、裏切られるということは怒りと悲しみを同時に感じるものだと思う。

それでも私は、たくさん時間をかけて人に期待していたいし、信頼したいし、信頼される存在でありたいと思う。


4|関心を持つ相手は厳選する

誰彼構わず関心を持つと結局のところ、ただ疲れるだけだった。
私が人に興味がないのは、そういった疲れから解放されたいからかもしれない。だけど、誰にも興味がないのではなくて、関心を持つ相手はしっかり選ぶようにすることが肝なわけで。

関心がなければ相手のことを理解できないと思うし、人を大事にすることなんてできないんじゃないかと思う。
自分の感情を乱す相手には関心を向けず、大事にしてくれる人にだけたくさんの関心と愛情を与えられる人でいたい。


5|嫌いの感情を減らせるように

私は昔から「嫌いな人はいないかな」と答えるような子に密かに憧れていた。幼い頃は、そんな綺麗ごとは存在しないと思っていた。(捻くれた子供だったと思う)
「嫌いな人がいない=誰にでも優しい」とは限らないと思っているけれど、周りからの見方としては悪くないだろう。

だけど大人になって分かったこと。
「嫌い=相手に関心がある」ということで、嫌いな相手に関心があると思われることが恥ずかしいし、かっこ悪いと思うようになってきた。

知り合いから「どうでもいい」と思われることほど悲しいことはないし、嫌いと思われるよりも虚しいことはない。
嫌いを超えた先で待っているのは、どうでも良いという感情。これから先の人生で二度と関わりがない相手に嫌いという関心を向けるのは間違っているような気がしてしまう。
余白のある人に憧れる私は、嫌いの感情が少ない人にも未だ憧れている。


理想の私は、これから先も変わっていく

これから先も、たくさんの人と出会い、さまざまな経験をしていくだろうから、今思い描いている理想の自分は変わり続けていくだろう。

大切なことは決して見失わないように、今生きていること、自分を好きでいること、愛してあげること、悲しい想いはなるべく減らせるように。

いつかここに書いた理想を兼ね備えた存在になれるように、良い経験をたくさんしていきたいと思う。

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