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いくつ名前があったって

私はインターネットで、複数の名前を持つ。ハウルは言った、「自由に生きるのに要るだけ」名前が必要だと。

こうやって言葉を紡いでいるのは、誰かに聞いて欲しいからではあるけれど、私のことを知る誰にも、聞いてほしくはない。
知り合いにも友人にも、家族になんて以ての外。SNSで何度か身バレをしたことがある。アップしている写真で、描いた絵で、内容で。案外すぐにバレてしまうものだ。毎回大焦り。ときには憤慨して、逃げるように非公開にしたり、名前を変えて生きている。

夢に見た。友人にこのnoteがバレてしまうこと。何度も推敲して大事に綴った言葉たちを大慌てで削除していく自分。もったいなくて残念だけど、これ以上知られるわけにはいかないのだ。知って欲しくないから、口には出さずにスマホを叩いた。じゃあ全世界に公開するなって思うでしょ?私もそう思うよ。だけどひとりでメモ帳に書き溜め続けるのは、とても寂しい。どうしようもなく、ひとりだった。


Twitter全盛期に、友人と知り合いの大所帯でツイキャスをしたことがあった。
人が多いと喋るのが苦手な私は、たくさんの人が発言する中、入る隙なんかどこにもないと会話を眺めていた。まあいいか、それでも。と思っていたところ「喋らなかったら居ないのと同じだよ〜!喋って!」と気を利かせてくれたみんなに言われたのだった。
優しさ故の発言だったんだろうけど、なんとなく心に残った。そっかあ、私いま、居なかったのか。存在を証明するために言葉を発するんだ。じゃあ喋りたいことがなくて、頷く隙をうかがって、もう居なくて良いんじゃない?とも思った。

もうTwitterを初めて9年になる。
多いときは毎日20ツイートくらいしていた。なにをそんなに呟いてたっけ。今となっては数日に一回くらいで、なんにも呟くことがない。知り合いに言えるような気持ちが無いこと、言語化できない微妙な気持ちばかりが募っていく。誰にも言えないこと、言うほどでもないこと。名前がいくつあったって、あんまり自由じゃないんだよって、最近どこの名前にも不在な私は思う。

身近な誰か一人にでも、情けなさも愚かさもちっぽけなプライドも全部諦めて、話してしまえたらそれで良いのに。

SNS、下手になったな。ずっと私はここに居たのに、この居場所から離れて、次はどこに行けばいいんだろう。


音だけの場所でも、文字だけの場所でも、やっぱり喋らないと居ないのと同じなんだ。ずっと居るけど、存在が確認できない。透明人間みたいなものだ。私だけが一方的にみんなを見てる。

何個名前があったって、自由になんてなれはしない。名前を変えても違う自分では居られないし、意味が無かった。やっと気付いたことだった。

noteの最終更新が17日も前だ。
そのうち私はここからも居なくなるかもしれない。居なくなりたくない。私はまだここに居る。そんな一心だった。

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