誕生日宣言

数ヶ月前に誕生日だった。

これまで、自分から今日が誕生日であることを周りに言ったことは一度もなかったけど、今年は自分から誕生日を認めるのが目標だった。
達成することが出来たから、誕生日についてちょっと書いてみようと思う。

昨年まで、自分から「今日わたし誕生日です!」と言って相手から引き出す「おめでとう」の言葉になんの価値も無いと、割と本気で思っていた。

なので、SNSで自らの誕生日について言及するそれに、一体何の意味があるのだろう?と不思議だった。

私にとっては、誕生日に祝いの言葉をもらうことが重要なのではなく、自分が相手にとって「誕生日を覚えていてもらえる人間かどうか」を知る日でもあった。それこそ審判とか裁判とか合否発表に似た気持ちも一緒にやってくる日だったのだ。

SNSで一切誕生日に触れずにしれっとしていても、私のホーム画面に飛べば色とりどりの風船が画面下からいくつも浮き上がってきて、気付いた人は言葉をくれるし、仲良しの友人はLINEでお祝いしてくれる。ありがたいことに毎年プレゼントを郵送で交換する遠方の友人もいる。

十分過ぎるほどに恵まれているのに、毎年なんとなく虚しかった。私は私のことを上手く肯定できない人間のくせに、自分のことは一等かわいい。だから自分の誕生日を忘れられてしまえば良いものを、日付が変わる前から思い出して気にしてしまうくらいだったし、日付が変わって数分間、誰からも何も言われないと少し、かなり淋しかった。

自分は友人の誕生日に、日付が変わってすぐにメッセージを送るほどマメでも無いのに、だ。

私は自己肯定感が低いばっかりに、人から貰う言葉に頼りすぎている。人に期待しすぎている。純粋に祝い喜ぶだけでいいはずの誕生日きっかけで確信したくなかったけれど。

これではあまりにも虚しいので、自分から誕生日を認めることで楽になれるのではと思った。

誰かにみっともなく期待してがっかりする必要もない。誰が私のことを覚えてくれているのかと考える必要もない。投稿を見た人の気が向いたら祝ってくれるってことになる!よしじゃあ誕生日宣言をしよう!と思ったのが漸く今年のこと。


やはり情けない気持ちがあって、誕生日を気にしていないフリをして何十分かスマホを放置して読書に徹し、時間を置いてから実践した。

相手からの言葉を待たなくても、自分で言い出すことでとりあえず私だけは、私の誕生日をきちんと覚えていることを認めてくれた心地になれたので、正直かなり助かった。

私はまず、私の誕生日を自分できちんと祝う必要があったんだと思う。自分の誕生日に無頓着な人に漠然と憧れてそういう風に振舞っていたけど、多分祝いたかったような気がしてきた。錯覚かもしれないけど。

これからは毎年いくらかマシな気持ちで誕生日を迎えられそうな気がする。きっと来年も引き続き宣言すると思う。私だけは私の誕生日を忘れることは多分、絶対にないから。


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