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胸に広がるオレンジのシュワシュワ

「ありがとうございます。」
そう伝えて、電車を降りた。
みぞおちあたりが、ふるえてる。
こわかったというより、ただ、衝撃だった。

* * *


金曜の夜。始発駅まで行き、電車に乗った。職場で夕飯を済ませたから、帰って寝るだけ。
左角の席をキープ。音楽を聴くでもなくスマホを見るでもなく、すこし目を閉じて最寄り駅まで。

数駅すぎて、赤い傘の女性が前に立った。その隣で若い女性がふたり、仕事の話。片方の子が話す発音の、「研修」とか「集中」という、shの音が強め。
なんか好きだな。口をとがらせるのかな。マスクの下で、私はおちょぼ口をしてみる。


あと三駅くらいという時、膝に衝撃が走った。
目を開けると、なんと、おじさんが私の上に倒れていたのだ。体は、ぴーんと伸びて。

「え、え、え、だ、大丈夫ですか?」
おじさんは、寝ていた。


数字の4。私から見ると鏡文字の4。
4の縦棒が、銀色の手すり。斜めに伸びる線が、おじさんの腕。歪んだ4の横棒は、おじさんの体である。
本人は立っていたつもりなんだろう。でもちがう。あなたが立つ天地は、私の水平。

あわあわしていたら、誰かがおじさんをグッと引っぱり、女性ふたり組が肩を押しあげてくれた。まず女性たちにお礼を言う。

「すみません、大丈夫ですか?座りますか?」
耳が遠いか、私に話しかけられていると思ってないのか。白髪まじりのおじさんは無反応で、今度は吊り革に棒立ち。目は開かず、赤ら顔。

電車が停まった。女性ふたり組が降りるので再びお礼を言い、席に戻る。

…びっくりした。

すると、右隣に座っていたスーツ男性が立ち上がり、赤い傘の女性に席を譲った。
全然気付かなかった。前に立つ女性は、妊婦さんだった。彼女もかなり焦っただろう。おじさんがお腹をかすめたのだから。


あと二駅。
私の左前に棒立ちおじさん。時々、しなる。
右前にスーツの男性。右の席は妊婦さん。
目の前に、ひとりぶんの空間ができた。
思わず車両を移動したくなったけれど、私が席をたつと今度は妊婦さんに倒れていく可能性もある。どうしよう。

そのとき、空間に長身の男性が立った。
明るい髪に白いTシャツ。何かぶつぶつ言っている。
それから、おじさんに話しかけた。
「大丈夫ですか?あっちに寄りかかったらどうですか?」

30代前半くらいだろうか。
彼が最初に居た、出入口横のスペースを勧めてくれた。おじさんが前進すれば、寄りかかることができる。
「大丈夫ですか?」


おじさんが、ゆっくりと、口を開いた。
「あなたは何を言っているの?」
伸びてしまったカセットテープのよう。
0.75倍速。目がすわっている。

これはちょっと、やばいかもしれない。
でも彼は濁さずに、はっきり続ける。
「ふらふらしていらっしゃるので、大丈夫かなと思ったんです。」

「あなたは何を、言っているの?」
「ふらふらして、いらっしゃるので。」

「そういうあなたは、大丈夫なの?」
「僕は大丈夫です。でも大丈夫なんでしたら、大丈夫です。失礼しました。」

「あなたは、何を言っているの?」
困ったことにカセットはリピートする。同じやりとりを3〜4回くり返し、ようやく止まった。
ああ。彼がおじさんを引っぱり上げたのか。


最寄り駅。
「ありがとうございます。」
小声で伝えると、彼はこくりと頷いた。
赤みのある金髪。長くてふわふわの髪の向こうから覗く目は、きりっとやさしかった。

振り返れなかったけど、彼は空いた席に座ることなく、立ち続けていたに違いない。


落ち着かなくてコンビニへ。
レジの前に品物を置きながら、店員さんに
「お疲れさま…あっ、お願いします。」と言ってしまった。疲れてるのは私だ。



* * *



風呂上がり、小さな缶のファンタオレンジをグラスに注ぐ。鮮やかなオレンジ色と細かい泡で満たされた。



結構いい連携だったな。それぞれ出来ることをしていたもの。
何よりも彼。おじさんがいつ倒れてきてもいいように、わざわざ移動してくれて。
彼の行動を振り返るほどに実感した。私は守ってもらっていた。

性差のない。差別なき世界。
そうは言っても、体格や環境で強弱がつく。
知らない大きな物体が倒れ込むのは、やっぱり、こわかった。

うん。こわかったんだな。
炭酸をごくごく飲む。


もし私が男性にうまれたら、
彼のように動けるだろうか。
やさしく守れるだろうか。
筋力だけではない強さで。

シュワシュワのオレンジ。
ふわふわの金髪。
胸がシュワシュワする。

みんな、お疲れさまだね。
なんなら、おじさんも。
無事に帰れたかな。

彼のまっすぐな目を、思い出す。
最後のひとくちを、喉に流す。


つよいこグラス