ハートランドの遙かなる日々 第27章 奇跡の場所
アインジーデルンの奇跡
馬車は湖を渡る架け橋のようなフルデン半島を越え、対岸の市街を抜け、山道へと入って行く。しばらく登った所で大きな岐路があり、そこで先行する馬車が停まった。
アルノルトはその馬車に横付けにして幌馬車を停めた。
「どうしたんです?」
高い御者台にいたピエールが言った。
「ルートを確認したい。ここからこの道を真っ直ぐ行けばシュウィーツを抜けてブルネンの港だ。そこから我々は船で湖を渡ってベッケンリートへ出るのが最短なんだが、ウーリへ寄るのか?」
ベッケンリートは湖の対岸の州、ウンテルヴァルデンの港町だ。
アルノルトは言った。
「それで大丈夫です。僕たちもこのままエンゲルベルクへ行く事にしましたから」
「そうか! なら良かった。姫が言うにはここを左に曲がるとアインジーデルン修道院領なのだそうだが……」
後ろのドアが開いて、イサベラが呼び掛けた。
「クヌフウタさん。アインジーデルン修道院に寄りますか?」
クヌフウタが幌馬車から顔を出して言った。
「最大の巡礼地ですから一度は行きたいと言っていたのですが、ご迷惑ではありませんか?」
イサベラとピエールは互いに頷きつつ言った。
「船に乗るなら時間に余裕が出来るそうです。そうですね?」
「道は少し経由するくらいですし、馬を休めるには、アインジーデルンは良い場所です。大丈夫ですよ」
エルハルトとアルノルトも頷いた。
「僕らももう焦ることも無くなりましたし、いいですよ」
クヌフウタは礼を取ったが、幌馬車から半身を乗り出しているので、エレガントに片方の裾を摘まんだけだ。しかしその一瞬は王女の雰囲気が漂った。
「ありがとうございます。では寄らせていただきたいと存じます」
一行はアインジーデルンへの道を左へ曲がった。少し行けばそこはもうアインジーデルン領内に入る。
アインジーデルン修道院は独立自治の領を持ち、その守護権者をラッペルスヴィル家が長年務めてきた。それが少し前に、ハプスブルク王家の預かりとなり、そして先日、ゲッティンゲン家へと移った事になる。
「嬉しいですわ。アインジーデルン修道院は巡礼者は誰もが行くような、この辺りでは一番の巡礼地なんです。それに山の上で独立した自治領ですから、エンゲルベルク修道院にも似ているんですよ」
クヌフウタがそう言うと、アルノルトが振り返って言った。
「へえ。自治領なら仲良くしておかないとね」
エルハルトは首を傾けつつ言った。
「ラッペルスヴィルとは関係が深い修道院ですし、また魔女と言われないよう、ハーブの事は言わない方がいいかもしれませんね」
クヌフウタは首を振って言った。
「いいえ。必要なら私は諦めません。せっかく神様が用意してくれた薬草を、魔女のだなんて……」
「魔女って言うのも、実態の無い蔑み言葉に過ぎないんですよ。オレ達は実際に魔女と呼ばれる人を知っています。家でたくさんの薬草を育てていて、色々な物を混ぜて自分で特効薬を作ってしまうんです。それがまたとんでもなく効くんですよ。アフラの熱病はその人の薬で劇的に治ったんですから」
「そうだったんですか!」
クヌフウタはアフラを振り返り見たが、アフラはあまり記憶が無いので目をぱちぱちとさせた。エルハルトが言葉を続けた。
「ええ。それは賢女と言った方が相応しいくらいで、魔女なんてバカにした言葉に過ぎない。本人はキリストより古くからのローマの伝統を信じているだけだから、魔女じゃないと言ってましたがね」
「そうですか。その方に是非一度お会いしてみたいですね」
アルノルトが振り返って言った。
「その人の子供には山小屋で会ってますよ。ジェミのお母さんですから」
「そうでしたか! とても賢い良い子でした。お母さんもさぞ良い方だろうと思ったものです」
「いい人ですよ。あの峠の辺りには、よく山菜を取りに来る事があるそうですよ。通っていれば会えるかもしれませんね」
山道がなだらかになって来ると、森が開けた。森の向こうには広い牧草地が開かれていて牛達が草を食んでいる。さらにその向こうには大きな瓢箪形の湖に抱かれるように、大きな集落が見えた。その一角に高い塔が二つ聳えているのが遠くからも見えた。
「大きい修道院だ。あれを目指せばもう迷わないね」
「そうだな」
町並に入ると多少道が入り組んで来て、時々塔が見えなくなるが、取り敢えず塔を目指して近付いて行けば道に迷うことは無かった。
修道院前の広場は巡礼者達で溢れていた。広い広場の中心には泉があり、古びた小屋のようなものが建っている。巡礼者の団体が幾つも列を成していて、案内人が何人もそこで解説をしているような混み合い様だった。
「山の中にどうしてこんなに人がいっぱい……」
アルノルトは道に溢れ返る人で馬車を進めるのにも困りつつ、ゆっくりと馬を進めた。先行する馬車はようやくのことで停める場所を見付け、アルノルトもそこへ馬車を並べて停めた。
エルハルトは「着きましたよ」と後ろに声を掛けた。そしてすぐに降りて馬を労い撫でてやり、アルノルトもそれに習い、グラウエスを撫でた。
「大分慣れて来たようだな」
「そうだね。小さいのに良く頑張ったな」
ここまで長い登りの道だったので、馬もかなり疲れているのが伺える。
それはブルグント側の馬も同じだった。ピエールも馬を撫でて労っている。
「馬も休憩させなければな。飼葉と水を貰って来よう。そちらの分もかな?」
「オレも行きます」
そう言ってピエールとエルハルトは何処かへ出かけて行った。
馬車から降りた女性陣は合流し、修道院を見上げて一様に驚いた。
「これは大きいですね!」
「あれを見て下さい、高くて上が雲の中です」
クヌフウタとイサベラがそれに圧倒されていると、アフラとマリウスも隣に加わった。
「まるでお城みたい! 山の中にあるとは思えないです」
「おっきくて、たっかーい」
アインジーデルン修道院はあの大きな聖母聖堂とエーテンバッハ修道院を足してもまだ余るくらいに大きかった。聳え立つ二つの尖塔は上に雲がかかるほど高く、二つの塔の間に建つ礼拝堂もまた高く、その横にも城のような建物が連なって翼のように広がっている。加えて隣の湖から漂う霧が神秘的な雰囲気を纏わせていた。
それを見上げつつ、一同は広場の入り口にある泉へと歩いて行った。そしてそこにいて通りの良い声で解説をしている修道士の話を聞いた。
「暗闇の森に隠棲した聖マインラートは、この泡立つ泉を見付け、その傍に小さな小屋のような礼拝堂を建てました。そしてチューリヒの聖母教会の大修道院長から頂いた木彫りの聖母子像を収めました。その聖母子像は今では蝋燭の煤で黒ずんで、黒のマリア像と呼ばれ、今も修道院の祭壇に安置されています。この泉は奇跡の癒しが顕れるという聖なる泉です。是非感謝の祈りを捧げてから飲んでみて下さい。決してコイン等は投げ入れないように。不浄のものですので」
クヌフウタが案内をしている修道士に聞いた。
「ここで水を汲んでもいいんですか?」
「もちろんです。皆やってますでしょう」
見れば皆、泉にかかる小さな桟橋から水をコップに掬って飲んでいた。
「この小さな小屋は昔の修道院なんですか?」
修道士は大袈裟な手振りで言った。
「いいえ、これは後にそれを模して建てた水汲みポンプの小屋に過ぎません。聖マインラートが建てた古い礼拝堂は、あの大聖堂の中にあります。古い礼拝堂は彼が二人の盗人に殺された後、八十年の間は巡礼者の場所となります。その後、聖エバーハルトがシュトラースブルクからやって来てこれを囲むようにして修道院を建て、初代修道院長となりました。それが完成すると、献堂の儀式の為にコンスタンツの司教だった聖コンラートがやって来て、その時にかの奇跡が起こったのです」
「どういった奇跡ですか?」
「それを知らずにここまでいらっしゃった? 今や教皇様にも認定された有名な奇跡です。少し話が長くなりますが、皆さんも聞きたいですか?」
「はい」とイサベラが頷く。
「聞きたいです!」とアフラが手を上げると、皆も頷いていた。
「皆様ご要望とあらばお話しましょう。この地に聖エバーハルトが修道院の建造を終えて、時の王女や高位の騎士や司教達、そしてコンスタンツ司教の聖コンラートをここに招いて献堂の儀式をしようとしていたその前夜のことです。聖コンラートが出来たばかりの修道院を訪れて、真夜中に祈りを献げていると、闇夜であるのに祭壇は太陽のような光に照らされ、どこからか天国のようなメロディーで聖歌を歌う声が聞こえ始めました。そしてミカエル大天使が率いる天使群が行進をするように天から降り下って来るのが見えたのです」
アフラが驚くように言った。
「天使様! やっぱりいるのかしら?」
修道士が頷きつつ言った。
「きっといる事でしょう。話はさらに驚くべき続きがありますので、遮らずに聞いて下さいね。天使群の行進の後には聖歌隊や名だたる聖者達が続き、そして最後には輝きのうちにイエス・キリストが御姿を現され、この修道院を彼の母であるマリア様に献げる儀式を始められました。それは献堂の儀式を擬えるものであったそうです。聖コンラートは恍惚とそれを見て、朝になってもその観想の中でそこに跪いていたそうです。やがて招待した人々と修道院長が集まると、聖コンラートはその事を話し、夜の間に儀式は神によって既に行われたと主張しましたが、多くの人は聞き入れません。そして、献堂の儀式を始めようとすると、やめよと三回、既に礼拝堂は神によって献堂が済んでいるとの声が多くの人に聞こえました。後にこの事は教皇様にも伝わり、しっかり調査をした結果、本当の奇跡だと認定されたのです。そしてここは神によって奉献された礼拝堂として、世界から巡礼にやってくる修道院となったのです」
「まあ! 天使群の行進だなんて! それにイエス様自らマリア様に奉献されたなんて! 素晴らしい奇跡です」
クヌフウタが感動していると、アフラが言った。
「光に、天使様……それって、クヌフウタさんに起こった事も似てますね」
クヌフウタは思い出したように言った。
「そう言えば……歴史上にも同じような事はあったのですね」
修道士は驚いたように目を丸くした。
「貴女様はまさか、聖女様?」
「いえ。その……駆け出しの修道院長です……」
「その若さで修道院長! 見ればその生成りの修道服、フランチェスコ派の正統の御姿ですね。是非私に中を案内させて下さい。当修道院の修道院長にもご紹介致しますから。どうぞどうぞ」
と、一行は半ば強引に修道院の中へと連れて行かれた。
「待ってくれ! 僕も行く」
アルノルトは馬を動けないように柵に結び付け、走ってそれを追った。
護衛としてオーギュストも一緒に走って来て合流し、一行は修道院の中へと入って行った。
「わあ……」
高い天井は美しい天空の風景のような青い装飾画で満たされ、ロマネスク様式の柱には色も鮮やかな装飾が凝らされていた。その壮麗さは見たこともなく、言葉にならない。中が静かだった事もあり、皆、言葉さえ出なかった。修道士が静かに言った。
「この聖堂の部分は比較的新しく、祭壇に近付くにつれて古くなっています。その奥にはマインラートが建てた礼拝堂の部分さえも残っているのです。ここにその鍵もあります。さあ参りましょう」
修道士は鍵を握りしめ、椅子の並ぶ礼拝堂の真ん中を歩いて行き、奥へ奥へと歩いて行った。そして、一見祭壇のように見えた美装の階段を上り、装飾された鉄格子の扉の鍵を開けて中へと入って行った。
一行は天井に見とれて足元が危なくなりながら、それに随いて行った。柵の扉はすぐに閉じられ、少し離れて歩いていたオーギュストは駆け寄ってももう入れなかった。
すぐ後に遅れてエルハルトもその場所へやって来た。そして締め出されて扉を覗いているオーギュストを見付けた。
「既に向こうに入った。肩を貸せ」
エルハルトは鉄柵の前に屈み込むと、オーギュストはその肩に乗った。立ち上がると二人とも背が高いのでかなりの高さになる。
オーギュストはそこから高い柵を登った。柵は上まで登れば空いている場所がある。
巡礼者達はそれを見て、神をも恐れぬ行為に響めいた。
しかし、肩を貸したエルハルトは置いて行かれてしまう。
「オレも!」
柵の上に座ったオーギュストは仕方ないという顔でロープを垂らした。
祭壇の中の空間は、かなり古い石造りになっていた。
クヌフウタがそれを見回して言った。
「ここは古いですね」
「ここは二百年程前に作られたものです。その壇から先はさらに古く、その床石は、聖エーバーハルトが建てた頃のままだと言われています」
「ここが聖コンラートの奇跡のような奉献があった場所ですのね!」
「その通りです」
「ここには、まるで聖霊が満ちているようです」
クヌフウタとペルシタはその場に跪き、十字を切り、しばし祈った。
アルノルトは何故か目を丸くしていた。イサベラがそれを悟って言った。
「聖コンラート。アルノルトさんの洗礼名と同じですね」
「ああ、そうなんだ。エーバーハルト先生も名前が出たね」
クヌフウタは祈りを終え、立ち上がって言った。
「同じコンラートですか。いい洗礼名ですね」
修道士は振り返り言った。
「それは、良い名前をお持ちです。さあ、ここが慈悲の礼拝堂です。神が御姿を現され、献堂の儀式を自らなさったので、出来るだけそのままを維持しているのです」
そこにあったのは不思議な光景だった。天井の高い礼拝堂の祭壇となるべきその場所に、小さな古い礼拝堂があった。扉は全て開放され、中の祭壇には真新しい装飾が施され、中央に聖母マリアの聖母子像が数多くの蝋燭で照らされていた。
修道士はその小さな礼拝堂の前で言った。
「このマリア像はチューリヒの大修道院長ヒルデガルドより聖マインラートが頂いて、この場所で奉祭したものです。木で出来ているのですが、蝋燭の煤を帯びて今では黒ずんで、黒のマリアと呼ばれるようになりました。こちらでご礼拝下さい」
一同は祭壇前に設けられた椅子に座り、しばしの祈りを捧げた。マリウスはしかし一人歩いて行き、小さな礼拝堂の横に回って周囲を一巡りして帰って来た。
「勝手に入っちゃダメよ」
アフラが注意すると、マリウスが言った。
「入ってないよ。なんだかすごくいい景色だった」
「どれどれ?」
そう言ってアルノルトとアフラも同じコースを歩いてみた。後ろには再びマリウスも続いた。小さな礼拝堂は高い壁で囲まれ、高い窓からは幾筋の光が差している。聖堂の高い天井までその窓が連なり、振り返るとその向こうにはそうした窓の光が入り口まで連なって見えた。あまり見られない荘厳な風景だった。
「マリア様に蝋燭を奉献されますか? 蝋燭を中で灯す間だけこの礼拝堂の中へ入る事が出来ます」
修道士はそう言って蝋燭を勧めた。
クヌフウタとペルシタ、そしてイサベラは蝋燭を取り、礼拝堂の中で蝋燭を灯してマリアに一礼をし、蝋燭の奉献をした。クヌフウタはここでも跪いてしばしの祈りを捧げた。
それが終わった頃にアフラ、そしてアルノルトが帰って来た。そして指を差して言った。
「すごく綺麗ですよ」
「確かにいい景色だ。行く? 行きます?」
「では、修道院長にご紹介を……」
和やかに修道士が振り返った時にはクヌフウタ達の姿は無かった。
既に小さな古い礼拝堂の周囲を巡っていたクヌフウタは、足を止めて言った。
「ここは聖霊の想い出の場所なんですね」
イサベラが首を傾げた。
「どうしてそうお思いになるんですか?」
「どうしてと言われましても。そう心に想いが浸みてくるのです」
イサベラは微笑んだ。
「さすがクヌフウタさんです。聖マインラートはそれだけ素晴らしい方だったんですね」
「そうだと思います。二羽のワタリガラスを友にするだなんて、まるで神話にも似ていて素敵ですものね。私もそんな風に、想い出に残る人にならなければ」
「想い出ですか……私もなれるかしら?」
イサベラはそう言うと、ここしばらくの想い出に想いを馳せた。
「こっちだよ」
「ここです」
マリウスとアフラが呼んだ。
「ここから向こうを見てみて」
アルノルトは手で入り口側を差してそう言う。
行って見てみると、そこからは修道院の高い窓から差し込む光の群れが見えた。
ロマネスク様式の柱が林立し、そこに霧が漂い、巨大な神殿に雲間から天使が降りて来る風景画のようにも見える。
「なんて美しいんでしょう……」
クヌフウタ達は感嘆の声を漏らした。
イサベラは、光に舞う霧に一瞬、天使の姿を見た。
「あれは、天使!」
「本当。天使みたい!」
アフラもそれを見て驚いているが、霧の形はすぐに崩れていく。
その声に、天使に身をやつす私が見つかったのかと思って思わず身を隠した。
しかしそれでなくともここには天使達がとても沢山飛んでいた。その天使達も驚いて姿を隠して行ったのだった。
イサベラは、漂う雲の全てが天使に見えた。その一瞬の幻にあまりに感動して涙すら流した。
「私はとうとう天使を見たわ。この修道院は世界でも一番美しい。ここへ皆で一緒に来れた事は、私にとってもいい想い出になりました……」
「私も……」
アフラとイサベラは頷き合って、もう一度その美しい風景に見とれた。
修道院の奥処で
クヌフウタを先頭にして小さな礼拝堂を一周し、元いた場所へと出ると、探していたらしい修道士が駆け寄って来て言った。
「ああ、いらっしゃった。では、次は修道院長のところへご案内しましょう」
一行は中庭へと出て、修道院長のいるという棟へ続く回廊を歩いて行った。
アフラとアルノルトは驚いて言った。
「中庭も広ーい!」
「ここだけでエーテンバッハ教会の倍はあるな」
その中庭を横切って、二人の男が歩み寄って来る。
目を凝らして見れば、それはオーギュストとエルハルトだった。
目のいいアルノルトが手を上げて言った。
「あれは……オーギュストさん! それに兄さん!」
「オーギュスト?」と、イサベラも驚いた。
向こうからもエルハルトが大きな手を振っている。
「どうやって中に?」
近くまで歩いて来て、オーギュストは言った。
「少々迂回させてもらった」
「大変だった。柵を越えたりしてな」
と、エルハルトはそう言ってアルノルトの肩を叩いた。
イサベラはオーギュストを睨んで言った。
「まさかこんな神聖な場所を傷付けてはいませんか?」
「勿論です。護衛としてお供致します」
オーギュストは一礼をしてから一行に加わった。
「貴殿は帯剣しないのか?」
オーギュストはアルノルトに聞いた。
「帯剣? 僕はまだ騎士ではないんです」
「それは残念だった。しかしいざとなれば近くにいる貴殿が護衛だ。心許ないだろう」
オーギュストは自らの短剣をアルノルトに差し出した。
「私に勝った証として、この剣を贈ろう」
その剣は宝飾が施され、かなりの高級品だ。
「頂けません。そんな良い剣ですし」
イサベラはその宝剣を横から取って言った。
「この人は何でも簡単には受け取りませんよ。一旦私に下さるかしら?」
オーギュストは畏まるように手を胸に置いた。
「御心のままに」
イサベラはアルノルトを振り返り、宝剣を持って言った。
「アルノルトさんは、騎士になると言って下さいました。偽りはありませんか?」
「なろうと思ってる。騎士団に入るんだ」
「そう。ならば、この剣が必要だわ。これは騎士の短剣。そして今なら、私が叙任をして差し上げましょう」
「叙任……」
「既に誓いはいただきました。その誓いを守る事の他には何も要りません。ただこの剣を、騎士の礼を込めて受け取って下さい。それよりは、私の届く世界では騎士としての証となるでしょう。これは私からしてあげられる、唯一のことだわ」
オーギュストが驚いて言った。
「まさか、お手ずから叙任とは。我が国の者なら一生の栄誉だ」
エルハルトはアルノルトの背を押して言った。
「またとない栄誉だ。貰って来い」
アルノルトは中庭に出てイサベラの横に跪き、礼を取った。
「受けよう」
イサベラは微笑んで剣を鞘から抜き、目の前に擬した。短剣なので、アルノルトには届かず、イサベラも中庭に出た。
「私が叙任するのは二人目ですが、あれから勉強して、本当に騎士にするのはあなたが初めてです。共に国を守るものとして、そして約束の地を守る者として、この剣と共に、あなたに弱き者を守る騎士の任を授けます」
そのイサベラの姿は白い修道服を着ていたので叙任という雰囲気こそ無かったが、その言葉は一言一言に心が篭もっていた。イサベラはアルノルトの肩に短剣の腹で三度触れると、剣を鞘に収め、それをアルノルトへ差し出した。
アルノルトは片手でそれを掴んだが、
「両手でだ」
と、オーギュストが言うので、両手で宝剣を受け取った。
「キスするんだ」
と、さらにオーギュストが言うので、アルノルトは顔を赤くしてイサベラの手の甲にキスをし、
「違う。剣だ」
と、さらに言われて短剣にキスをした。
「ありがとう。これは想い出の品になる。宝物にするよ」
そう言ってアルノルトは立ち上がった。
「想い出になれば、こちらこそ光栄だわ」
イサベラが晴れやかな顔で頷くと、周囲から拍手が沸いた。
エルハルトやマリウス、オーギュストもそうだが、案内の修道士まで大きく手を叩いている。
「ここでは抜刀禁止ですが、叙任といういい場面に必要でしたので許します。他国の高位の方のようですし」
修道士はそう頷いた。イサベラは謝って言った。
「すいません。いけなかったかしら?」
「必要があれば許可しますが、次からは許可を得てからお願いします。では、参りましょうか」
長い回廊を歩き、一行は修道院長のいる棟へと辿り着いた。その棟は図書館でもあり、古い本がぎっしりと棚に並んでいる。
「ここは図書室です。修道院長はいつもこの奥の部屋でご面会になりますので」
「すごい本……」
「蔵書数はザンクトガレン修道院と競うのではないでしょうか」
本の並ぶ回廊を抜けて、一行は大きな部屋へ通された。
そこでしばらく待つと、金糸銀糸を散りばめた司祭服を着た、恰幅の良い修道院長が現れた。
「皆さんようこそアインジーデルンへ。私が修道院長のヘンリッヒ・フォン・ゲッティンゲンです」
修道院長はそう言って、クヌフウタやペルシタ、そしてイサベラと握手をした。ウーリの兄弟や後ろでじっと控えているオーギュストは握手をしなかった。
「さて、あなたがフランチェスコ会の方なのは判るのですが、どちらの修道院の方なんですかな? なんでも若くして修道院長だとか」
クヌフウタは胸に手を当てた。
「私はボヘミアにあります聖アネシュカ修道院の修道院長として指名され、本部のアッシジへ向かう旅をしております。クヌフウタと申します」
「シスター・クヌフウタ。ボヘミアから遙々ようこそ。他の方々はまたそれぞれ異色の方揃いのようですな。白の修道服はシトー会ですな」
イサベラが膝を低く礼を取って言った。
「私はブルグントの出身ですので、シトー会です。イサベラと申します」
「ここにあとドミニク会が揃えば主要な会派が揃いますな」
アフラが手を上げて言った。
「あ、私、ドミニク会の学生です。心は立派にドミニク派の先生派です。ウーリのアフラといいます」
「ほうほう。これで四会派揃ったわけですな。ここは巡礼の地ですから、会派の違う方から、ひいては異国の異教の方までいらっしゃいます。それでもその違いを超えて、その信条を語り合えるのがこの地です。そうした話を伺うのも楽しいものです。さあ、大いに語らいましょう。どうぞテーブルへお着きになって」
そこには学校で使うような一人用の机が半円に並べられたようなテーブルがあった。ここは教室にも使われるらしい。椅子は少しクッションの良い椅子だ。
皆がそこへ並んで座ると、修道院長はその中心に座った。その隣にはさっきの案内の修道士も座って話した。
「申し遅れましたが、私は修道士、コンラートと申します。実は君と同じ名です」
アルノルトはそう言われて意外そうに一礼を返す。
「僕はウーリのアルノルトです。洗礼名が同じなんですね」
「オレも同じウーリのエルハルトです。羊飼いをしています」
修道院長は言った。
「ウーリの羊飼いさんですか。ウーリの修道院は古いですね。負けるかもしれない。私共アインジーデルンはベネディクト派では最も古い部類の修道院です。とは言え、ベネディクト派は修道院によってかなり大きな違いがありますし、派を名乗っても人によって信仰の目的やその信条とする所は様々なのが実情です。特にここは少し変わっているかもしれません」
クヌフウタは聞いた。
「どう変わっているのですか?」
「ええ。元々ここは聖マインラートの遺した場所です。聖マインラートは当時暗闇の森と言われ、鬱蒼とした森ばかりだったこの地に小さな教会を作り、そこで隠遁生活をしました。それは自然の中の自給自足生活です。聖マインラートは鳥の巣の卵を食べていたそうで、その時に巣から落ちていたのを助けた二羽のワタリガラスを友としたので、それはアインジーデルンの紋章にまでなっています。その他にもここは狼や熊も出るのですが、そんな獣でさえ聖マインラートとは仲間となり、決して傷つける事は無かったと言われています。それに習い、我々も基本的にはこの地で自給自足の生活をする事を信条としています。聖ベネディクトゥスは神が全ての物の中に栄光を得ているようにと仰っています。全ての動物や自然の中にも神の栄光を見い出し、友として生きる中に理想があると我々は信じるのです。今やこのように大所帯の領土修道院になって理念化してしまいましたが、基本線では一応自給自足を守っています」
コンラート牧師が言葉を継いだ。
「それでも他から買わざるを得ないものが少しですがありますね。ここでは作らない金物類や自警団の武器類、あと医薬品も買いますね」
「素晴らしいですわ。今逗留してますエンゲルベルク修道院も、同じように畑や牛や羊の放牧をしていますが、なかなか完全な自給自足とは行きませんもの」
クヌフウタがそう言うと、修道院長は目を丸くして笑った。
「今エンゲルベルクにいらっしゃる? それは兄弟姉妹のようなものです」
「この三人ともそうなんですよ。三人同じ係を作り、山の中で薬草を採集しては、薬草園を作っております」
「それは意義深いではありませんか。大変良いことです。では、医療の心得が?」
「ええ。私は小さな頃から施療院にいましたので、いささか薬草と医療の心得があるのです。言うなれば人々を病から救う事も私の信条となっていますね」
「それは素晴らしい! それは是非教えを請いたい程ですな」
修道院長が言うと、隣の修道士も唸るように言った。
「まさに聖女……いえ、聖女と後に認定される方とこうして会っているのかも知れません」
「そうでないにしても、他の修道院の方でなければうちの修道院にスカウトしたいくらいですな」
クヌフウタは今度は魔女だと言われる事無く、大いに認められたので、ペルシタやイサベラと笑い合った。
コンラート牧師がクヌフウタに聞いた。
「先程、慈悲の礼拝堂の前で、聖霊が満ちていると仰っていましたが、あれはどうしてですか?」
クヌフウタは首を傾げてイサベラを見た。似たような事をさっきイサベラにも聞かれたからだ。
「言葉では上手く言えません。聖霊を知る人になら、心で感じる事です」
「聖霊を知る……知ると、そう仰いましたか! そういう方はやはり、聖女様でしょう」
コンラートの言葉は修道院長に向いていた。修道院長は驚嘆しつつ言った。
「これは! いつもの軽口かと思っていたら、いよいよ本当のようですな。私共に聖女を認定する権限はありませんが、私とコンラートなら遠からずそう認定することでしょう」
「そんな。買い被りです」
そこで唐突にアフラは言った。
「クヌフウタさんはエックハルト先生のお話を聞いて聖霊が来られて、触れられてふにゃ……」
その言葉はクヌフウタの指で口を塞がれて止められた。その口には人差し指を当てている。アフラはそうでしたと目で頷いた。
「天使群行進の奇跡のことですかな?」
「そうです。私、こちらの天使の行進の奇跡の事をお伺いして、大変感動致しました」
クヌフウタは笑顔で取り繕い、その場を乗り切ろうとした。
コンラート牧師は怪しむような顔をしたが、修道院長は笑顔で言った。
「教皇様にも認められた確かな奇跡です。その奇跡があった日を記念して、毎年九月にそれを擬えるような献堂の儀式を行っております。それも当修道院の特別なところですね。もし機会がありましたら是非ご参加下さい」
「はい。しかし、もうすぐローマへ発つ予定ですので……」
「そう言えばローマのアッシジへ行かれる所でしたか。それは長旅ですね。それでしたら図書室に巡礼地の良いガイドマップがありますので、後ほどご参考までにお持ち下さい。アッシジやローマ聖庁までの道のりも判りますし、巡礼の土地にはほぼ巡礼者の逗留施設がありますから、それを辿って行かれると良いでしょう」
「それは助かります。しかしご返却するべきでは?」
「それには及びません。巡礼者に引き合いが多く、こちらで多数写本をして配っているものですから。ご遠慮なくどうぞ」
「それはありがたく頂戴致します」
「ところで、そちらの方が少し気になるのですが……」
修道院長の目は椅子に座らず戸口に立っているオーギュストに向いていた。
「私は護衛だ。お気になさらず」
「見たところあなたはどこかの修道騎士団の方でしょうか?」
「そうだ。テンプル騎士団に所属している」
「テンプル騎士団と言えば、エルサレムへは行かれたことが?」
「ああ。しばらくはアッコンにいた」
「アッコンは大要塞だと聞きましたが、まだ戦いがあるんですか?」
「要塞から一歩外に出ればまだ戦いだらけだ。幾度も戦い、仲間と生き延びる事が出来たのは神の助けだと思っている」
「戦争は罪深き事ですが、エルサレム巡礼の護衛から始まった騎士団もまた騎士道。一つの信条でしょうな。その結果少なくともお仲間は生き延びる事が出来たのですから」
「誠に痛み入る」
オーギュストは修道院長に小さく礼を取った。
「実際エルサレムを見て来られて、あなたはどうお感じになりましたか?」
「約束の地とは言われるが、土地は荒れ、周りを敵に囲まれては、常に命掛けだ。女子供が安住出来る土地とは言えなかった。物資の補給を絶やさぬよう、武装した集団が長期間いてもこの始末だ」
「それが教訓というわけですな?」
「教訓と片付けるにはその犠牲は多過ぎた。彼らが浮かばれない」
修道院長は慌てて言った。
「いやこれは立ち入り過ぎた失言だった。では、次はシトー会のあなたにお聞きしましょう」
「私ですね」
イサベラが小さく笑った。
「シトー会は質素で粗食を旨とするようですが、どうやって生活を立てられるのですか?」
「昔は地面に寝て、ブナの葉を食べたそうですが、今やシトー会はブルグントの王族の保護も得て、食べるものは豊かになって来ています。シトー会の修道士も自ら畑を耕しますし、一番は牧羊を行います。毛織物が名産物になるくらいに繁盛しているんですよ。それでも質素と粗食は厳格に守っていて、修道院も装飾があまりありませんし、信徒であれば王族であってさえも粗食で過ごしています。美食をしたりして太ってしまう方はおりません。ベネディクト派の方は美食家が多いそうですが?」
ヘンリッヒ修道院長は少し太り気味だったので苦笑いした。
「これは少し耳が痛い。コンラートも少し、控えないとな」
「私ですか? それを言うなら修道院長こそ」
二人とも太り気味なのはそれほど変わらなかった。修道院長が咳払いをして続けた。
「しかしシトー会も牧羊をしているとは。私共と同じく通ずる部分がある」
「シトー会は贅沢や私有を禁じた聖人の、聖ベネディクトゥスの遺志が廃れて来ているので、厳格な形で復古させようとしているのです」
「思えば私有を禁止するのは我々ベネディクト派の始祖たる聖ベネディクトゥスから始まったのでしたな。それはやはり根っこの部分では同じですね。羊飼いは動物と自然を友にするという我々の信条に最も近いものだと考えています。聖書においてもアブラハムやヤコブ、それにダビデも羊飼いでした。多くの羊がいる草原の牧歌的な風景こそ、聖書の中のイスラエルの風景だったはずです。羊飼いは昔から聖なる方々の仕事だったのです。では、そこにおられる羊飼いの青年に話を聞きましょう。羊飼いの仕事には神の祝福があるとは感じませんか?」
エルハルトが畏まったように言った。
「ごく普通に羊や牛を飼うだけですから、そんな大層なことは私には判りません。そんな聖人のこともよく知りません。ですが、羊飼いから言わせて貰えば、私有を禁止することには反対です」
「ほう、何故かな?」
「修道院の方にこんな事を言っていいかは判りませんが、私有をしないということは、羊になるということです。食べる草があるうちは何処へ歩いても幸せで、何も考えずに生きて行けるかもしれません。でも、冬になればここは雪に閉ざされます。我々羊飼いが牧草を蓄えてあげなくては死んでしまうのです。そのためには蓄える場所もいるし、草を刈る広い土地もいる。道具もいるし、羊小屋だっている。羊飼いはあまり物を持たないようでいて、多くの物を総動員しているのです。私有を全部だめだというなら、羊は冬には死んでしまう。そして人も生きて行けなくなります。迷える小羊を導く牧師というからには、羊になってはいけない。羊を護る羊飼いの側にならなければいけないと思うのです」
「ほう。それはもっともなご意見です。我々は羊側だったか。これはお見逸れした。だが理念として、財産を私有することに過度に腐心するのは慎むべきではないかな?」
「理念としてならいいとは思います。でも、慎むべきは一部の富裕者だけでしょう。全部禁止というのは……少し考え無しのやり方ではないですかね? 我々の国ウーリでは多くの物を共同体で所有しています。家畜や土地も一応誰かの割り当てはあるものの、共有の財産です。そこにはもう過度な私有はありません。禁じる理由が無いのです。村ではどの人も冬を越えるために多くの物を蓄えます。山を越える人も旅支度を調えてから旅に出て行きます。これは誰も責めない自然な行いです。これを禁じれば途中で食い詰めるのを助長するようなものです。もっともそれは修道院の人だけの戒律なんですが、修道士こそがよく蓄えるよう指導するのでなくては、羊飼い側には立てません。よく冬の最中に食い詰め修道院が出て、村の食料を分け、全員の負担にもなっているのです」
「うむ。これも耳が痛いが適確な見地だ。一理も二理もあるようです。そういう修道院が出ないよう、私達でも気を付けておきましょう」
「それは大変助かります。羊飼いの話を聞き届けて下さり、嬉しく思います」
クヌフウタは感銘深げに言った。
「私、目が開く思いでした。修道院長たるもの、羊飼いにならなければいけませんね」
ヘンリッヒ修道院長も深く頷いた。
「私も全く同感です。この意見の鋭さと冴えこそは素晴らしい。やはり羊飼いには神の祝福があるようだ」
「いえ。羊飼いという事なら、弟のアルノルトはもっと違うものを見ているようです」
「コンラート君ですね。普段どんな事をしてるのかな?」
アルノルトが言った。
「僕も兄と一緒に山で羊の放牧をしていて、犬も羊も一緒にいつも仲間のようにしてるんです。それはいい事なんですね?」
「君も羊飼いでしたか。それは神に祝福されることだろう。ここでも同じように羊を飼う係の者、牛の係りの者がいて、それは立派に修道士の仕事です。そうした仕事をする時の信条を聞きたい。それによって祝福は大きく変わるだろう。どういった事を考えて仕事をするのかな?」
「僕の? 全く祝福とかじゃなくても?」
「思っている事で構わないよ。信条は皆バラバラなものさ。でもそこに本質的な要素があるんだ」
「僕は、山を荒らすことなく、山と共に羊を守って生きるんだ」
アルノルトと目が合ったエルハルトは「それだけ?」と笑う。
修道院長もあまりに普通で首を傾げた。
アルノルトは続けた。
「僕はいつかそう山に誓ったんです。羊は山と共に生きている。僕もまた山と共に生きる者だと。山は生きているんだ。そうエルハルト兄さんは教えてくれた。雨も降るし、風も吹く。そんな生きている山の天気を兄さんは読めるんだ。僕らは険しい山の自然の中で、羊の安全に行く道をしっかり見定めて、一匹も零さないよう羊達を守り導く。でも、その時に思う事は、羊を守っているようでいて、村を守っているんだ」
「村を?」
「羊だけを見てるんじゃなく、その持ち主のこと、その家族のこと、いつも山から村を見下ろして、みんなを見てる。僕はアーマンの子だから」
修道院長は感銘極まったように言った。
「実にいい! まるでそれは、我々の理想だ。私には君が聖者にも思えてきたよ」
「いえ、村では普通のことですから」
「ここの修道士でも君ほどの境地には達していまい。いや、流石に聖コンラートの名を持つだけのことはある。一緒のお兄さんも同じく、素晴らしいですな。お名前を伺っても?」
「エルハルト・シュッペルといいます」
「エルハルトさんですか。洗礼名を伺っても?」
「ブルクハルトです」
「ブルクハルト! ああ、あの方のお子でしたか」
「父をご存知で?」
「もちろん知ってますよ。今や有名な方だ。ウーリが自治共同体として纏まりが良い理由が判りました。このような子を育てるのですから」
「恐縮です」
修道士コンラートがエルハルトに言った。
「実はウーリにはとても縁があってね。少し前までウーリから来た修道士がいたんだ。そこの図書室の司書をしていたんだが、牧畜家としても有能で、彼の提言でここの牛や羊はみるみる増えてね」
「牧畜は得意でしょうね」
「ああ、体も相当立派になったんだ。司書にしたのが間違いだった。これは数年前のことだ、彼はそんないい牛達をツークまで品評会へ借り出して、そこで事故で逃がしてしまった。どうやら地元の悪い奴に絡まれたようだ。全頭の牛を失って手ぶらで帰って来ると、牛の係りが怒って罰を言われてね。牛を探し出すまで帰るなと言われたんだ。そして幾日も牛を探しているうち、嵐が来て、彼は雷に打たれ、死んでしまった」
「かわいそう……」とアフラが呟くと、コンラート牧師は胸に小さく十字を書いて手を当ててほんの少し瞑目した。
「始めは身元確認もままならなかったんだが、そこへ誰も呼ばないのに彼の妹がウーリから探しにやって来て、すぐに確認が取れたんだ。それで彼の遺体はここに運ばれて葬送をしたんだが、その妹さんにどうして判ったのかと聞けば、そんな未来を全てわかっていたと言うんだ。とても不思議なことだった」
修道院長が言った。
「私が修道院長になったばかりの頃だ。今なら私が勝手な処罰は止めるんだが、恥ずかしながらその時は周囲に流されるままでしてね。それを見越して予見されていたのだから信じ難い事だったのですが、現に彼女はその場にやって来たのですからな。その妹さんはビュルグレンの人だと言っていましたが」
エルハルトはその話に縁を感じざるを得ない。
「ビュルグレンは我が村です」
「そうでしたか。知ってる人かもしれませんな」
修道士コンラートがそんなエルハルトの顔を見詰めて言った。
「君は少し彼の面影があるから遠い縁者かもしれないな」
エルハルトはとたんに目を見開き、急に大きな声で言った。
「その方は何と言う方なんですか?」
「彼の名はペーテル・フォン・シュヴァンデンという。妹はアンナと言って今は聖母聖堂で修道女をしていると聞いた。あと一週間もすればちょうど三年目の命日になる。良ければ墓に参ってやってくれると嬉しい」
「それは是非!」
「では早速……」
修道士コンラートが話を切り上げて立ち上がろうとすると、アフラが手を上げた。
「私、まだ話してません。次は私ってドキドキしてたのに」
立ち上がりかけた修道院長が座り直して言った。
「君は確かドミニク会の学生……。代表として何か言う事があるようだ」
「はい。私はこの二人の妹です」
「そうか。では、君も羊の世話を?」
「いえ、あまりしてません。でも毛を洗ったり、糸紡ぎしたりします」
「それも立派なお仕事だ。ドミニク会ではどのような事を学んだのかな?」
アフラはいろいろ考えてからようやく一言言った。
「魂のことを……」
「ほう。それはどなたに?」
「私、エックハルト先生に習ったんです! ドミニコ会はエックハルト先生がいるから最高なんです!」
「やはりエックハルト牧師ですか! 少し前にディートリヒ牧師と共にこちらにいらっしゃいましたよ」
「エックハルト先生もここに?」
「ええ。この場所でこのようにお話をしました。同じように思うところをお伺いしましたが、淀みなき彼の思考は止まる事を知らない程で、それは崇高で神秘的な領域にまで到達したものです。しかし彼のお弟子さんにしては可愛いすぎるようだね?」
「お弟子は断わられてしまいました。ですが、先生の講義を聞きに行って来たのです。ここにいる皆も一緒に特別講義をしてくれました。クヌフウタさんはさらに個別指導付きでした」
「それは価値のある講義でした。あの時に講義の前に話すと整理が出来ると仰っていたけれど、そうですか。では、あなた方はエックハルト牧師の薫陶を得られていたのですね」
そう言われたクヌフウタは「心の師です」と心から笑って頷いた。
「彼の三位一体論は素晴らしい! お聞きになりましたか?」
「ええ! 不躾ながら私、それは異端には当たらないものかと聞いてしまいましたが、先生は丁寧に説明して下さいました。父と子は私達にとっても一体という先生の解釈、それこそは広範な真理にまで到達していて、三位一体をより完成させていると、今では理解出来るのです」
「まさしく仰る通り。彼は斬新過ぎて異端視される危険もあるが、すべては真理を見出し、人々をより高くへと導くためのもの。私は教皇様に手紙を書いて、エックハルト牧師の事をそのように伝えておこうと思っています。彼に批判が出る前にお耳に入れなければなりません。決して異端ではなく、未来の最先端なのだと」
「良い事かと。教皇様がこの解釈を聞き入れて下されば、聖書世界の未来が変わります」
「彼らは最高の碩学アルベルトゥス・マグナスやトマス・アクィナスを継ぐ神学者です。彼の言説はそれを越える輝きを放ち、新しい時代を予感させるものです。遠くない未来、人々を次の段階へと運んでくれるかもしれない。会派を異にする私も、今や影ながら彼の支持者です」
「私も同じく支持者です」
「私も!」とはアフラの声だ。
「嬉しい事です。こんな可愛い同志にお会い出来るとは思いませんでした」
修道院長がそう微笑むと、アフラは満面の笑みを返した。
それだけで心から解り合えた気がした。
それから、クヌフウタ達修道女はヘンリッヒ修道院長の案内で図書室へ行き、巡礼のガイドマップを貰った。
一方、ウーリの兄弟達はコンラート牧師に連れられ、ウーリの修道士の墓を参った。
兄弟四人は並んで献花をして手を合わせた。
エルハルトは墓碑名を読みつつ言った。
「ペーテル・フォン・シュヴァンデン。安らかに。アーメン」
「アーメン」
「アーメン」
「安らかにお眠り下さい」とアフラが最後を結んだ。
振り向けばコンラート牧師は深く跪いていた。
「ありがとう。我が友、いや、兄弟に祈ってくれて。本当にありがとう。同郷の方に祈って貰えてペーテルも喜んでいる。そう感じるよ」
「そうであったならば嬉しいです。でも、フォン・シュヴァンデンという名前は、どうもウーリでは聞かない名前なんです。地名以外でフォンを付ける人もかなり限られてるし」
エルハルトにアルノルトも相槌を打った。
「そう言えば聞かないね」
「司書が出来るほど賢い人ならば、絶対有名になるはずなんです。字がちゃんと読める人は少なくて、あちこち呼ばれるはずだから。ウーリに殆ど居なかったのかもしれません」
エルハルトの言葉に皆頷いた。それはコンラート牧師もだ。
「シュヴァンデンは確かにグラールスの地名だ。隣の州ではあるからもしかすると流れ者だったのかも知れない」
「帰ったら長老格の人に少し聞いてみます」
「そうか。何か判ったら連絡をくれるといい」
その後、一行は大聖堂の入り口で合流し、そこまで修道院長も迎えに出てくれた。
「どの方も素晴らしい方ばかりだ。そしてとても仲もよろしいようです。一体どういった仲間なんです?」
クヌフウタは一人一人見回して言った。
「私は巡礼の為ですが、エックハルト先生の講義を聞きに来た子、友達に最後の別れを言いに来た子、チューリヒで裁判沙汰に巻き込まれた人、それを助けに来た人、それぞれ皆バラバラで。でも不思議と同じ馬車で、旅の仲間になったんですわ。エルハルトさんの馬車なんですけど」
エルハルトが笑って言った。
「でも今はクヌフウタさんの巡礼のお供で一致してますね。チューリヒからヴィンテルトゥール、そこからラッペルスヴィル城に滞在してここまで来たんです。これからは皆でエンゲルベルクへ向かう所です」
「ほう。素晴らしい旅ですな。ラッペルスヴィル家ともご関係が?」
「ええ。ラッペルスヴィルのご夫妻ともずっと一緒の道中だったんですよ」
「いやいや、お二方は今もアインジーデルンには重要な人です。まさかお知り合いとは。そこからはまたローマの巡礼へ行かれると?」
クヌフウタが晴れやかに頷いた。
「ええ。ガイドマップがとても参考になりそうです。良い写本をありがとうございました。帰りにはまたこちらへ寄らせていただきたいと思います」
「是非ともお立ち寄り下さい。今日はこんな素晴らしい方々に会えた。お引き合わせに感謝を」
修道院長がそう十字を切って祭壇の方向へ祈ると、皆もそれに習った。
そして一行は別れを言い、アインジーデルン修道院を後にした。
馬車へ乗り込む時、イサベラの誘いでアフラはブルグント側の馬車へ乗り込んだ。
「修道院長はとてもいい人でしたねー」
アフラは首を大きく曲げてそう言った。
「そうね。会派や信条が違っても快く受け入れてくれて、懷の広い方だったわ」
「エックハルト先生の支持者だそうですし、絶対いい人です」
「アルノルトさんを聖者と仰ってた」
「おかしい」と、アフラは大いに笑った。
「でも、判るわ。アルノルトさんの心は澄んでいるのよ。まるであの湖のようなの。感じないかしら?」
「兄さんが?」
「聖者って、そういう事じゃないかしら?」
「兄さんって意外とすごいのね」
アフラは改めて兄を見直した。
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