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ハートランドの遙かなる日々

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長編のヨーロッパ歴史小説です。そしてまた、これは夢の深淵への旅でもあります。 中欧にスイスという国がまだ生まれる以前、そして建国の時を迎えるその胎動の時代、神聖ローマ帝国に新しく…
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ハートランドの遥かなる日々 プロローグ

 森の賢者は教えてくれた。  草木は夢の中に真の花を咲かせてその心根を繋ぎ、そしてまた、人の夢にもその葉を青々と繁らせている。  人の夢の広がりに枝を伸ばすようにして、世界樹は夢見るように世界の行方を見て来た。  時の泉源に根を発したこの霊樹は、夢の深く、時も未だ眠るほどに深い心奥世界の森の向こう側にある。  そこでその老木は、夢の輝きを頼りに今も世界を見ているのだ。  世界樹は途方も無く永い時を生き、永遠とも思しき夢をその記憶に蓄え、一番輝かしい時代の記憶を、思い出のよう

ハートランドの遙かなる日々  第一章

中央アルプスの高地で  早朝の清冽な山の息吹きが霧となって、高原の村を朧に包んでいる。  村を囲むアルプスの雪が朝日を映じて黄金色に輝き出せば、その広い渓谷地が微睡むように姿を見せる。  白く雪を被る岩嶺は、麓へ行くにつれ若草色へと染まるかのように森と草原が彩り、その低地には碧く澄んだ湖が水を湛えている。  湖畔には修道院のような大きな建物があって、山の麓の森には石積みの古城の影も見える。  私は風となって、高地の草原に長く佇んでいた。  言葉に出来ない郷愁がそこにあった。

ハートランドの遙かなる日々 第二章 牧場の家

 この日の帰り道はエルハルトの予想の通りに雨が降って来た。  四人の兄弟達は雨に降られてびしょ濡れになって家に辿り着いた。 「あーあ。大事なお洋服に泥が……」  アフラは自慢の衣装が泥に汚れてすっかり悄気てしまった。 「ほら、四人とも早く服を着替えて」  母のカリーナはマリウスを着替えさせた後、一人しょぼくれて刺繍のベストの汚れを洗っているアフラを見つけた。 「春祭りの大事な衣装なのに……」 「山に洗濯してもらったと思えばいいのよ。あとでお母さんが洗ってあげるから」

ハートランドの遙かなる日々 第三章 眠りの森

 摺り下ろした林檎をクヌフウタのしたように飲み込ませていると、アフラは咳き込んで目が覚めた。 「お母さん………苦しいよう………」 「アフラ! 大丈夫?」  アフラは今食べた林檎を吐き出してしまった。 「アフラ。しっかり」 「食べられない……」 「お腹は減ってるでしょう? もう二日も食べてないのよ」 「頭が……痛い………」  アフラはそう言って気を失うように眠ってしまった。 「アフラ!」  カリーナはアフラの異常な眠り方に真っ青になり、このままではいけないと考えた。

ハートランドの遙かなる日々  第四章 来訪者

 朝霧が棚引き、雲の厚い朝は日が高くなっても暗い。寝坊をしたアルノルトは慌てて牧舎へ駆けつけた。エルハルトは既に起きて牧舎を掃除していた。 「兄さんごめん。寝坊したよ」 「まあ昨日は遅かったしな。それに今日は天気も悪そうだから放牧は牧場内で済ますつもりだ」 「天気に救われた。またどやされるかと思ったよ。起き駆けにしか見てこなかったけど、アフラの様子はどうだろう」 「昨日エドフィーユさんから貰って来た薬草が少し効いたみたいだって母さんが言ってた」 「それは良かった」 「でも母

ハートランドの遙かなる日々 第五章 夢から覚めて

 アフラは赤い花の中で眠っていた。  誰かに呼ばれた気がして、その中で目を覚まし、一つ伸びをして、おしべから花の蜜を飲んだ。喉が渇くとここから蜜が溢れて来るから不思議だ。  長い時間を花の中で過ごして、そろそろ飽きも限界だ。  試しに花を押し開けると、そこは広いお花畑だった。  その真ん中には一人の老婆が立っている。 「こっちへおいで」  指を動かしてそうアフラを呼ぶので、花から出て、そこへ歩いて行った。 「こんにちは。ここはどこですか?」 「ここは夢の森だ。むこうに森

ハートランドの遙かなる日々 第6章 夢のような一日

 それから数日が過ぎて、シュッペル家の共同牧場では羊毛の刈り取りが始まっていた。それは家族総出の大仕事だった。マリウスはもちろん、下働きのカルビン、ペーテル、周囲の村人も手伝って行われた。病気明けのアフラは少し高い岩の上に座って、羊を見張る役をしていた。 「アル兄! ミルヒとシルフが道に出ちゃう! あっち!」  アルノルトも刈り取りの順に羊を連れて行く仕事をしていたが、病気明けのアフラを走らせるわけにはいかない。アルノルトはアフラの指す方を見定めて走った。子羊のミルヒは柵

ハートランドの遙かなる日々 第7章 春の精霊

 厳しい冬の雪の精霊が去り、春の精霊がやって来たことを祝う春祭りの日、色とりどりの花を髪に飾り、乙女達は民族衣装に身を包んでアルトドルフの町中をパレードする。ウーリでは古くから村の豊饒は春の精である春の乙女によってもたらされると信じられて来た。  色鮮やかな花で髪を飾った春の乙女達の行列が来ると、人々は喝采の声を上げた。  その後からは服に花を付けた楽団や、花で飾った馬車に乗った雪爺人形が続き、子供達は大きな歓声を上げ、さらに盛り上がりを見せた。雪爺人形はベーグという冬の精

ハートランドの遙かなる日々 第8章 山を越えて

 それから半月程が経った。  アフラは家でイサベラへ宛てた幾通目かの手紙を書いていた。手紙を書く間、マリウスは遊び相手がいないので、退屈そうにしている。 「お姉ちゃん、またお手紙書いてる。お返事来た?」 「ううん」 「じゃあ書いても意味無いじゃない」 「いいの。書くしか無いんだから」 「見せて」 「じゃーま。考えてるんだからあっち行って遊んでなさい」 「けちーっ」  アフラはイサベラを思うと心配で胸が一杯になって、なかなか筆は進まなかった。  アルノルトなどはもう心配も

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ハートランドの遙かなる日々 第9章 広場の王

 約束の日の正午、アルトドルフには人々が犇めくほどに集まっていた。重大なる発表がこれから行われるのだ。遠くの村からも人々は訪れていた。そこへ騎士修道士を伴った貴族の一団が現れた。そして広場の壇上にマント姿の精強そうな男が立った。人々がざわめくのを手で制すると、その男は演説を始めた。 「諸君。私は王の命によって、新しくこの地の代理執政官に任命されたゲスレルである。立て札に書き示して置いた通り、このウーリの地は帝国直轄領としての自治の王許を頂いた希有の土地である。その多くは聖母

ハートランドの遙かなる日々 第10章 牛祭り

 アルプホルンの音が山に響き渡る。往来にはカウベルの音を響かせながら、牛を連れた人々が列を成して移動を始めていた。牛飼い達は自慢の牛を何頭も引き連れ、アルプホルンの鳴る辺り、国境近くのアルプを目指して歩いていた。  ウーリとニートヴァルデンの国境地帯で行われる牛祭りは、周辺領の牛飼い達が牛を闘わせ、最強の牛を決めるものだ。元々はニートヴァルデンとオプヴァルデンで行われていたが、オプヴァルデンがハプスブルク家に取り込まれた今、それはやりにくくなり、ウーリとの共同で開催するよう

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ハートランドの遙かなる日々 第11章 国境の牛小屋

 明くる朝には雨が降っていた。アフラはエルハルトに早朝から起こされ、牛小屋へ行く準備をした。  エルハルトは大きな二つの藁束をロープで繋いでから、それらを肩に抱えて牛の背に一度乗せ、それ左右へ落として背に吊り下げる。そして牛の背で張り渡されたロープに皮布を当て、左右の藁束のバランスを取った。 「じゃあアフラ、これで落とさず行くんだぞ」 「落としたら私乗せられないわ、背が届かないもの。重いし」 「だ・か・ら! 落とさないで行くんだ」 「ハーイ」  アフラは雨を避けるために頭

ハートランドの遙かなる日々 第12章 チーズの家

 牧場の朝は早い。家に隣接する離れに住み込むカルバンとペーテルはまだ暗いうちから起き出して牛の世話を始め、同じ頃にカリーナは今日のミルクを絞り、水を汲みに泉へ出かけ、そしてパンを焼き、食事の準備をする。朝食が出来るのは日が山の上に昇る頃で、アフラやマリウスはその頃起きて来る事が多い。ブルクハルトは今日も不在だが、いれば起きるのはエルハルト達と同じ頃だろう。 「おはよう。朝ご飯まだ?」  後ろに付き纏ってそう言うマリウスに、カリーナの返す言葉が素っ気なくなるのは仕方がない。

ハートランドの遥かなる日々 第13章 チューリヒの聖堂

 アッティングハウゼンとブルクハルトは、チューリヒへの馬車の道中にあった。多くは山道ではあったが、馬車道の整備が進み、殆どの道は均され、軽快な速度を出して走ることが出来た。馬を御するのはヴァルターで、後席にアッティングハウゼンとブルクハルトが並んで話していた。 「明日の披露会には結構な偉い方々が集まるそうで」 「チューリヒはこの辺り一帯のヴァチカンにも等しいからのう。エリーゼ様はその中心となる聖母聖堂の守護者だ。少し前の空位時代なら周囲の領主から君主と仰がれてもおかしくは無