見出し画像

ショートショート『取っ手』(1809字)


 その奇妙な取っ手をみつけたのは、ふらっと立ち寄ったはじめてのバーで二杯目の飲み物を頼もうか、というときだった。

 奇妙、とは言っても形のことではない。取っ手そのものは、たとえば真新しい病院のスライド式の扉にくっついているような、ありふれたものだ。材質はアルミ合金。たぶん軽くて、大きさは人の手首から肘にかけてほどの大きさに見える。奇妙なのはそれが取り付けられた位置だ。

 取っ手は男性用トイレの天井の、つるりとした表面に取り付けられていた。

 ただ座っていただけ。僕は特に用を足したいわけでもなく、便器の蓋を上げて、パンツも下ろさず、ただそこに座っていただけだった。ぼんやりとアルコールで雲がかった意識。扉と鍵を閉めきり、外界と遮断された密室。便器の中の水と一緒に下水に溶けていくような感覚。ただそんなものに身を埋めていると、ふと目についた取っ手。

 僕の意識はすぐに下水を逆流してきて、
『どうしてこんなところに取っ手があるのだろう』
と思うよりも早く、それを掴もうとしていた。

 ただ、僕の精一杯伸ばした踵や腕は、天井まで到達するのに充分な長さがなかった。それでもう、取っ手に対する興味は失われて、急にどうでもいいものになりはじめた。ちょうど、古い陶器の器が欠けてしまうみたいに。

 手をよく洗って店内に戻る。ミカが新しく運ばれてきた朱色のカクテルに唇を浸していた。

「おそい」

「考えごとしてたんだ」

「もうお酒、きちゃったよ」

「それなんていうカクテル」

「知らない」

「知らなきゃ、頼めない」

「忘れたの」

 じっとその深い朱の液体を眺める。いちじくの中心みたいな朱。煮詰めたトマトソースみたいな朱。ほのかに柑橘系の香りがするが、カクテルというものは、いつだって柑橘系の香りがすると思う。

「考えごとって、なに」

 しばらく黙っていると、ミカが口を開いた。テーブルの下で、彼女の肉の少ない足が組まれる気配。

「大したことじゃないんだけど」

 視線をメニュー表の上で彷徨わせながら、言葉を探す。

「取っ手って、普通はどういう場所にくっついているのかなって」

 トッテ、とミカは繰り返した。僕には彼女が異国の食べ物を口の中で転がすみたいに、その単語の感触を確かめているふうに見えた。

「取っ手って、アレみたいなやつ」

 ミカは店の奥の方を目で示した。体を傾けてそっちを見ると、机が一つあった。古びた机。アンティークだろうか。椅子はなく、おそらく荷物を置くためだけにそこに存在するであろう机には、抽斗があり、そこには錆色の取っ手が備わっていた。

「うん、あんな感じの取っ手」

「なんでそんなことが気になるの」

「たぶん、大切なことなんだ。僕にもよくわからないけど」

「ふうん」

 彼女は取っ手と僕を、交互に見比べていた。

「中になにかあるとき、かな」

「なにがあるっていうんだ」

「知らないよ。でもなんていうか……そうね。ううん」 

 こういうときに、真剣に頭を捻ってくれるのは、彼女の美点のひとつだ。指を顎に添えて、眉根を寄せて。そのときほど、彼女が魅力的に見えることなどない。

「取っ手って、中になにもないときは、えっと、こっちが中に入っているものを求めていないときは、そんなに目につかないと思うの。あることに気づかない、というか。こっちが『開けよう』と思うから、その取っ手に気づいて、開けることができる。そんな感じ」

「つまり、僕が取っ手のことを考えているとき、取っ手を通りすぎて、中のもののことを考えてる、ってこと」

「そうなんじゃないかな、っていうだけ。だって扉なんて取っ手がなかったら、ただの一枚の板だもん」

 ふいに、音がした。なにかのエンジンが遠くで鳴るような音。スラックスのポケットからむずかゆい感覚がのぼってくる。スマートフォンが震えている。

「出ないの。奥さんかもよ」

「いいんだ」

 相手の用件はわかっていた。画面を確かめるまでもない。

「お手洗い」

 ミカは短く言って、席を立った。

 もしも、と僕は考えた。

 もしも彼女がこのまま、戻ってこなかったなら。なにか急用を思い出して、帰らなくてはいけなくなれば。あるいはここにある飲みかけのショートグラス以外、何の痕跡も残さず、煙のように消えたなら。僕はどれだけ楽になれるんだろう。

 しかし、ミカは戻ってきた。

 戻ってきた彼女の背中には、あの取っ手がくっついていた。

 僕はうんざりして、マルガリータというカクテルを注文した。


了 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?