#2 こえろ、ミジンコ
駅前にある6階建てのビルの4階、エスニック料理店に、森里環と猪狩優奈の姿はあった。
大学を出た後、一旦アパートに戻り例の透け透けゆるゆるロンTから白と紺のボーダーカットソーに着替えた環だったが、駅に現れた優奈を見て、もうちょっとオシャレしてくるんだった、と後悔する。
優奈は、白いニットのトップスにベージュのパンツを合わせ、首元にはキラリと控えめな小粒ダイヤを光らせていた。
長く伸ばされた髪も、傷むということを全く知らずに育った箱入り娘のようで、常にツヤツヤぷるぷる、弾むような指通り、である。
大手製薬会社に就職して忙しい毎日を送ってるというのに、なんて綺麗なんだろう。環は同じ女なのに、つい見惚れてしまった。ボーダーカットソーにデニムを合わせ、とりあえず一つ結びしてる自分が隣を歩いていいんだろうか。
「環、どう?研究室」
優奈は、見慣れない緑のラベルのビールで乾杯して一言目に聞いてきた。
「最近、メダカ大量に飼い始めた」
環がそう言うと、優奈は笑う。
「そういうんじゃなくて」
「それ以外?」
あの地味で薄暗い研究室を頭に思い浮かべ、窓際の大型水槽からトロトロ歩き、後ろの壁に伝う数十個のボトルに視線を移す。
そうだ、基本メスしか生まれてこないミジンコが、最近は理仁の趣味によってオスばっかり生まれてくる。なかなか残酷な趣味だ。
「理仁が趣味でオスのミジンコたくさん作るようになった」
「久しぶりに理仁の話が出てきたから、何か進展があったのかと思ったらミジンコ」
振られるように言い返され、環は他に面白い話題がないか考えながらビールを口に含む。日本のよりあっさりしていて、とりあえずビールだよって味。同じ「ビール」なんだろうか。
「何かないの?」
「何かって」
「環、もう25だよ?」
優奈のバッチリとした瞳がさらに開く。何度見ても美人だ。
大学1年の時、環は、隣の席になった優奈のあまりの美しさに驚き二度見した。工学部にこんな美人がいるとは。
隣の席ということもあって、優奈はすぐ仲良くしてくれたが、環の遥か上をいく頭の良さ、美しさで、1年の頃から院を卒業した今も学部内のマドンナだ。
卒業後もたまに会えば男たちはすぐ「猪狩さん」。
環は見事にずっと引き立て役をやってきた。それは今もこうして続いている。
「うちの職場の独身、誰か紹介しようか」
「紹介」という言葉に環は反射的に首を横に振る。
「いやいや、そういうの、いい、いらない」
「なんで」
「何話したらいいか分からないし、優奈にも気を使わせちゃうし」
今まで優奈を通じて3回紹介されたことがあったが、上手くいった試しがない。
優奈の紹介する男はいつも爽やかで、堂々としてて、女に慣れていて、それが環はめっぽう苦手だった。物怖じせずに話せる優奈が羨ましい。
そして決まって一度会うと連絡が途切れてしまう。向こうも優奈みたいな子が待ち合わせ場所に来るのを想像していたのだろう。
そう考えると、いつも申し訳なさでいっぱいになるのだ。
ごめんなさい、こんなボーダー女で。
環はそんな自分を想い、自虐的にふふっと笑う。
「ええー、だって20代がミジンコで終わるよ?」
優奈は納得のいかない顔をした。
だって、と環は理仁の顔をつい思い浮かべてしまう。
思い通りにミジンコが孵化した時の子どものような笑顔。肉眼では見ることのできない小さな卵にホルモンを注入する時の真剣な表情。
いつの、どの顔も、環の好きな顔だった。ミジンコを研究してる時はいつもいい顔をしてる。
ああ、愛しの理仁。
「いいんだよ、ミジンコで」
そう言って、ただただ辛いだけのサラダを頬張った。口中がチリソースの甘酸っぱい不思議な辛さでヒリヒリする。別に美味しくはない。うま味調味料でもぶっかけてやろうか。やっぱりアミノ酸って料理に必要だよな、なんてことまで考えてしまう。味はあっさりしてる割に、異国の香りが妙に鼻につくビールを流し込み、つまらない辛さを誤魔化した。
そして、しかし、と考える。
私はいつまでこの不毛な恋をし続けるのだろう。もしかしたら優奈の言う通り、新しい出会いを探してみた方がいいのかもしれない。だって今、完全に理仁と私は脈なしだ。
「言ってみたらいいんじゃない?」
優奈も「からーい」と舌を出し手でパタパタ冷ましながら、左手で慌ただしくビールを流し込む。そんなパタパタお手手の仕草が似合うから羨ましい。
「何が?」
環が聞くと、ちょうど肉野菜炒めが運ばれてきた。これまた辛そうだ。大きな唐辛子が既にまるごと見えている。
東南アジア系の女性の店員さんに「ありがとうございまーす」と言いながら、優奈の顔を見た。
「『私たち、付き合ってみない?』って」
ビールを飲み込んだ後で良かった。環は思わず吹き出す。
「私が?理仁に言うの?」
「そう、軽くね、カジュアルな感じで」
それ、優奈ならできるかもしれないけどさー、と優奈の顔を羨ましく思う。
この美貌にそんなこと言われたら、9割の男が付き合うだろうな。
だけど私だったら?そんな「付き合ってみない?」なんて言ってもサマにならない。そう、キャラクターの問題だ。あの鋭い目つきで、「みない」と言われて会話が終わるのが目に見えてる。
環は軽くため息を吐きながら答える。
「無理だなー、だいたいあの人女に興味ないもん」
環は激辛そうな肉野菜炒めに箸を伸ばした。真っ赤なソースが絡みついているせいで、パプリカなのかナッツなのか肉なのか、はたまた唐辛子なのかが分かりにくくて、まるでロシアンルーレット味を帯びたゲームだ。
「女に興味がない25の男なんている?」
見上げれば優奈が「信じられない」という顔をしてる。生物学的には、まあおかしい。だけど、と思考を巡らせる。
うちの研究室の、教授も、2個上の根本さんも、1個上のガルシアさんも、みーんな女なんて興味なさそうだ。ひたすら顕微鏡を覗き、パソコンにデータを打ち込み、気分転換に水槽を眺めてる。
「あのね、環」と優那が口調を強めた。
「女に興味がないんじゃないの、興味のある女が近くにいないだけなの」
「えっ」
優奈がまるでチョークでカンカンカン!と黒板を叩くかのように、箸で皿を鳴らした。ここテストに出すからね!とでも言うように。
環は納得過ぎて空いた口が塞がらない。
つまり、ずっと側にいるのに興味を持たれてないだけか。
そっか、そうなのか。
「ああ!」
突然思い出したような環の叫びに優奈が凝視した。
「今日、『その服、下着全部見えるよ』って言われた」
「は?」
優奈のクールな「は?」はヒヤリと場を凍らせた。そして口を開く。
「それ女として終わってんじゃん」
言葉は凶器だ。「女として終わってんじゃん」が、縄文時代に作られた獣を倒すためのクソ重い石斧となって、上から勢いよく振りかざされグッサリと環の胸に突き刺さる。
ああ、ほんとそうですよね。分かってる、分かってる、分かってる。
「脈ないかな?」
優奈の顔を恐る恐る見上げながら、口の中の肉野菜炒めをもぐもぐ味わう。思ってたほど辛くなかったことが、不幸中の幸い。辛くなくてありがとう。
「だから言ってんじゃん?」
優奈も肉野菜炒めを大量に取り皿に盛った。
「20代がミジンコで終わるよ、って」
ああ、なるほど。
優奈の言うことはいつだって全て正しかったことに環は気付く。
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