#3 こえろ、ミジンコ
あー、だめだ。全然だめだ。
午後5時の奥田研究室。環の脳は、3時にクッキーを食べたあたりから回転が鈍くなっていた。画面上、ズラズラと並ぶアルファベットが、途中でパッタリ止まっている。
ただでさえ論文は苦手なのに、英語だなんて語彙力の乏しさから稚拙にもほどがある。
理仁がメインで企画したプロジェクトではあるが、補助的な役割で5人体制でチームを組んで進めてきた。主役である理仁はキーボードを打つ手が止まらないといった様子だ。今朝8時過ぎから始めて、9時間も経過しているというのに。
反応ってreactionでいいのかな、ちょっと理仁が書いたところから文章パクろう。
思考が低迷した時によくやる技である。だから自分で書く力が伸びないということは重々承知なのだが、こうしないと進まない。
ネットワーク上のサーバーにある理仁のファイルを開くと、環は毎度のことながら絶句した。環のボツボツ途切れるような中身スカスカの文面とは異なり、英字新聞のような一面に広がる英単語の大海原。一目見ただけで、きっとネイティブが読んでも滑らかな文章なのだろうと想像できる。実際、英語に長けた海外留学生のガルシアさんや李さんも、よく理仁の書く文章を参考にしていた。
同じ研究をして、同じものを見ても、結果がこれほど違っていいのだろうか。
環は求めていた一文をその大量の英字の中から見つけ出す前にギブアップした。右隣でカタカタ、タン!カタタン、タン!とリズミカルにキーボードを打ち続ける理仁に目を向ける。
「ねえ」
環の呼びかけに反応し、左耳のイヤホンだけを抜いて「ん?」を顔を少し近付けてきた。
「これ明日やってもいいよね」
「明日、ここ入れないよ」
「え、なんで」
「ほら」
理仁がカレンダーに目配せをする。そこには明日、明後日の日付が赤く丸で囲まれ、大きく「学祭」と書かれていた。
だからみんな逃げ場がないような血走った目で論文書き続けてるのか。
落胆と同時に納得した環は、やるしかない、と諦めてパソコンに姿勢を向き直す。すると、右隣からトンと肘をつつかれ、反応してまた目をそちらにやると、理仁が口を開いた。
「学祭行ったことある?」
学祭。大学生活はやたらと長いくせに、あまりにも無縁に過ぎていったイベントだ。
大学1年の時に優奈と冷やかし程度に行ったが、優奈ばかりが声をかけられ寂しい思いをした上に、「もう面倒くさいから二度と来ない」と優奈が決め込んでしまったがゆえに、それっきりとなっていた。
「1年の時だけね。それ以来行ってない」
「じゃあ、明日行かない?」
環は耳を疑った。25年にして、人生初「好きな人からのお誘い」。
これは、少女漫画で何度も見てきた憧れのシチュエーション(彼らは高校生だし、お化け屋敷の準備などから胸キュンエピソード満載だが)。
どうしよう、まさか大学生活7年目にして好きな人から学祭に誘われるとは。ああ、修士課程で卒業しなくて良かった。みんなから白い目で見られながらも、就活もせず研究室に入り浸り続けて本当に良かった。
「うん」
環は、そんな胸のうちをおくびにも出さずに返事した。
「よし、じゃあもうちょっと頑張ろ」
そう言って理仁はまたイヤホンを付け直し、パソコンに向き合う。しかし環はと言うと、この一言のせいでもう論文どころではなくなってしまったのだ。
よし、じゃあもうちょっと頑張ろと今言った?それは、私との学祭デートを励みに論文頑張ろう、そういう認識でよろしくて?
よし、じゃあもうちょっと頑張ろ。
その一言を脳内でリピートすればするほど、今にも「くっくっく・・・」と勝ち誇ったような喜びの笑みが漏れ出しそうだ。
もうこの際まじでミジンコの性決定因子なんてどうでもいい。ミジンコがオスになろうがメスになろうが、どうでもいい!
だけど、と脳内聖女の声がする。
環、この状況を俯瞰しなさい。今、理仁は全てのエネルギーをミジンコ論文に注ぎ込んでいるのよ。環、やるのです、目の前の課題に取り組むのです。
ああ、そうだった。理仁の発表のためにも論文を書かねば。哀しいかな、書かないと我々はただ学費という甘いキャンディーを舐めて突っ立ってるだけの役立たず人間になってしまう。
環はさっと周囲を見渡す。2つ下の子も、1つ上の人も、みんな目の色変えて必死に取り組んでいる。
ヘッドスパでガシガシ頭皮を洗浄したい気分に駆られたが、ハッと短くため息を吐き捨て、頭を切り替えて目の前のミジンコ英語論文に向き合った。
そんなこんなで、気付けば21時。半日以上、お昼とトイレとちょっとした買い物を除いて、ほとんど研究室から出なかった。
目が痛い。目の奥がズーンと重い。頭痛薬のCMでよく見られる、目の奥から頭部にかけて痛みの矢印がグイーンと向けられているような、まさしくそんな痛み。
痛みにまけるな☆とスキップしながら自分を鼓舞したいところだが、そんなテンションを振るうほどのパワーはもう残ってない。
チラホラと院生たちが帰っていく時間になっても、理仁だけはパソコンから目を離すことなくずっと論文を打ち続けていた。
環は博士課程に進んだ時と全く同じ不純な動機で、また居残る決意をする。
30分が過ぎ、とうとう研究室に二人だけとなった。
チラリと横目で理仁を見ると、相変わらずやたらエンターキーを強めにリズミカルなタイピングを続けている。
この人の脳内では英語でミジンコの性決定因子について話してるラジオでも放送されてるんだろうか。
全く環の視線に気付かずパソコンから目を離そうとしない理仁に虚しさを覚え、環は立ち上がる。
「理仁、帰るね、私」
そう声を掛けた時、やっと理仁がパソコンから目を離した。
「あれっ」
あたりを見回す。今初めて気付いたのだろう。
「みんな、もう帰ったの?」
「帰ったよ」
「なんだ、俺も帰る」
理仁が慌てたようにパソコンを閉じ始める。
「背中いてえ」
理仁が立ち上がってストレッチをすると、ボキボキボキッと気持ちいいほどの豪快な音がした。
「すーごい音したね」
「バッキバキだよ、体」
そう笑う目と目が合う。理仁は研究から一歩離れると、一気に肩の力が抜けた表情をする。頭の中で凝り固まっていた硬い硬い受精卵が、場外ホームランとなって見えないところに飛んで行ったようだ。そのリラックスした具合もまた環の心をつつく。
環はふと、優那が言ってたことを思い出す。
私たち、付き合ってみない?
だけどそんなセリフをスムーズに言える人生なら、25年間空白の年月が過ぎるわけもなく。
環は静かに目を逸らし、持ち手の長いトートバッグを肩に掛けた。
研究棟の出口まで来ると、外は小雨が降っていた。最近は曇りなのか雨なのか空が悩み続けてるようなグダグダな天気が多い。
しかたない、アパートまで歩いて帰るかー。
傘を広げた時、隣に理仁が立つ。
「傘忘れた」
そう言う目は何か狙っているように環に向けられる。
「予報で夕方から雨って言ってたよ」
「そんなの見てないよ、入れて」
理仁はおちゃめなところがある。颯爽と環の傘を奪うと、二人の上に大きくかざした。突然訪れたまさかの相合い傘という展開に、環の心はフィーバータイムに突入。
こ、これは相合い傘っていうやつでは?
いや、でも冷静になれ、私。この人、例え相手がガルシアさんだったとしても、李さんだったとしても、教授だったとしても、傘に入れてもらってたのかもよ?
高鳴る心臓と、グルグル回る思考回路は止まらない。なぜ先ほどの論文の時に作動しなかった。
二人はゆっくり雨の中歩き出す。
男女二人の相合い傘をしてもなお、理仁はミジンコの受精についてとくとくと話し続ける。おそらくこのテーマなら優に1時間は話続けられるであろう。
環も「なるほどね」「へえ、そうなんだ」と適当に相槌を打つが、実は一切聞いていない。バクバク脈打つ心臓に手を当て、落ち着け、落ち着け、とさっきから命令し続けているのである。
受精卵に刺激云々唱えてるところで、理仁のアパート前に着いてしまった。
「ありがと」
話を中断し、彼は傘からワープするように屋根の下に跳んだ。
「私いなかったらどうしてたの」
環が軽く訊ねると、理仁はチラッと斜め上から降り続ける雨に視線を向けて「ああ」と思い出したように言う。
「研究室には折り畳み傘置いてたよ」
悪びれる様子もなく、そう言って笑った。そして「じゃ、明日」とヒョイと片手を上げる。
「うん、じゃ」
呆気にとられながら環も応え、軽く手を振った。家路に着く。そして考える。
傘忘れたってそういうこと?じゃあなぜ研究室に戻らなかった?
深読みするなと言われても、深読みするのが乙女心。
雨が少しずつ弱まり始めた。明日の学祭は無事そうだ。
環は偶然訪れた雨模様に感謝した。
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