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#12 こえろ、ミジンコ

紅葉もそろそろ終わる頃、絶景を独り占めしながら環は深い山奥にいた。

独り占めというのは半ば嘘で、研究室の水質汚濁調査のフィールドワークで湖に来ていたのである。

主体となるのは2個下のM1の子たちで、補助、管理、保護者、カメラマン諸々の役割を与えられD1の理仁と環は連れ出された。教授からの「論文ばっかりで疲れただろう」という心優しい選任である。

理仁と環は2人で貴重品係という立派な大役をこなしていた。もちろん、することはほとんどない。

岩場で全員胴長に着替えると、理仁と環を二人残し全員ザブザブとサンプリングを採取しに行ってしまった。

寒いこと以外はなんという気持ちのいい空間だろう。エメラルドグリーンの水面が、周りを一面取り囲む赤黄に燃ゆる木々をそのまま映し出し、雲一つない青空を水面下に描く。

しかし、と環は今の自分の装いを見直す。寒さ対策に重ね着した長袖のシャツは自前だからまだいいとして、下は研究室所有のチャコールグレーの胴長である。理仁とすっかり同じ格好で並んでいる。

理仁は全く気にする様子もなく、気持ち良さそうに伸びをした。

「最高のフィールドワーク日和だな」

そういう理仁はどんなにダサい格好をしてても様になる得な素材の持ち主だ。胴長姿の理仁にも、環はトキメキを覚える。

「私も研究室にこもるより、こっちの方が好きだな」

遥か遠くの方からマスターの後輩達の賑やかな笑い声が響いてくる。キャッキャキャッキャ。そんなにサンプリングの採取が楽しいのだろうか。こうやって岩場でのんびり日光浴してる方が幸せに決まってる。

「ねえ、告白の返事、もうしたの?」

環は思わず聞いてしまってから、少しだけ後悔した。太陽と環の間を冷たい風が通り抜ける。その風は確かな冬を感じさせた。

「なんでそれ知ってんの」
「研究室に戻る時に偶然聞いた」
「そっか」

理仁は静かにショックを受けた様子で、手元の石っころを拾い片方の手のひらに擦り付けた。

「まだだけど。まだ、よく分からないから、結論が出ない」

理仁は風に押されるような軽さでふわりと岩場に仰向けに転がり目を瞑る。きっと耳には静かな風の音と笑い声が遠く聞こえているんだろう。環は何も言わず正面の景色に目を向けた。

ここから見る景色は、絶対に勝田エリーには譲らない。
これは、私だけのものだ。
この時間は、私だけのものだ。

勝田エリーとどんなデートをしてるのかはもちろん環に知る術もないが、環は環で今のポジションに優越感を見出さないとやってられない。まだ紅葉デートには行ってないはずだ。

理仁が突然この状況を切り裂くように上体を起こす。

「俺もちょっと入ろっかな」

そう言って胴長の中に、上に羽織ってた上着をすっぽり収めチャックを首元まで締め上げる。身の回りにあったカメラやバッグなどを環の方へ寄せると、よろしく、とその責任を託して立ち上がった。

「好きだね」

環の声は虚しくその背中に跳ね返された。ザブザブと躊躇いもなく湖に足から入ってく理仁。

きっと水風呂のように冷たいはずなのに、好奇心と興奮と解放感が背中から伝わってくる。

少し強めに吹き抜けた風が葉を落とす。

「あ!」と理仁が大きな声を上げた。

「きてきて!見て!」

湖の中から大きく環を手招きする。最初は渋った環も、その大きな手振りに引っ張られるように立ち上がり歩み出した。

なんだろ。

湖の畔まで来て、足を滑らせないように中を覗くが理仁の指してる何かまでは全く見えない。ゴロゴロとした大きな石達が環の足を水面へと近付ける。

「こっちだって」

突然理仁は環の腕を掴み、一気に水の中へと引っ張り込んだ。環の体は胸下まで木の葉の浮かんだ苔色の水面に浸かる。

それは凍えるように冷たい。暑いサウナの後や真夏日なら気持ちのいいものかもしれない。しかし体温を逃すまいと岩場でぎゅっと足と胴と腕を引っ付けてたほどの気温だ。

濁った水面に目を落とし茫然とショックを受けてる環を、理仁はケラケラと子どものように笑う。

「嘘だよ、何にもないよ」

理仁の告白を聞いて、環は鼻からため息を吐き出し、藻で汚れた自分の手を「汚い」と言って見下した。

「プランクトンの住処だぞ、汚いとか言うな」

理仁は表面に浮かぶ水草やら藻の入り混じったぬめりある箇所をすくっては環の手のひらに乗せる。

「やめてよ」

そう断っても、ハハッと乾いた笑いと共にどんどん乗せていく。環の手のひらで緑色と茶色がマーブル模様を描く。手のひらにひとすくいの湖が出来上がった。盆栽のように本当は大きな自然をギュッと凝縮したようだ。ここにたくさんの生命が命を宿しててもおかしくない。手のひらが不思議な有機性を持つ。

「ねえ」と環が声を掛けると、理仁が笑顔を向ける。

「勝田エリーと会うの?」

その一言が放たれた途端に、理仁から笑顔が消えた。

「またその話?」

二人の間を風が吹き、頬と鼻先をキンと冷やす。環は頷いた。

「会うよ」

水面が反射するように、その狭い空間だけに響く声。

「やっぱり男ってみんな美人が好きなんだね」

手のひらのお椀を崩し湖を壊すと、パンパンと汚れを払いながら環は言った。

「何言ってんの」

理仁の鋭い目が環を突き刺す。その強さに環は一瞬たじろぐが、グツグツ煮えたぎってた鬱憤が噴き出される方が先だった。

「なんだかんだ会い続けてるのは好きだからなんじゃないの」

理仁は環を凝視する。それは実験を初めてする時のように、何を言わんとしてるのか解明すべく環から発される全ての情報をこぼさない意思の目だった。

「知らないから知ろうとしてるだけだよ」
「どうせあの顔に惹かれてるだけじゃん」
「そりゃあ揺れるよ、あんな美人で、性格も良くて、俺のこと好きって言ってきたら、普通に揺れるよ」

環は衝撃で次に言おうとしてた言葉を見失う。本当は「そうじゃない」と否定されるつもりでいたから、肯定の姿勢を見せられて狼狽したのである。

そんな本音を聞きたかったわけじゃない。会ってほしくないって言いたかったのに、言葉がねじれにねじれ、求めてもいない事実を聞かされてしまった。

美人とか、性格もいいとか、よりによってこの私の前で言います?

手のひらに残ったわずかな藻が気持ち悪い。環は爪を立て手のひらの汚れを掻き落とすうちに、ギュッと親指の付け根の膨らみを爪で押しつぶしていた。痛みで今の困惑した心境を紛らわす。

「今の理仁は、ただの女ったらしだよ」
「いつ俺が女たらしたよ」
「私の気持ちも、勝田エリーの気持ちも、もてあそんでるだけじゃん」

理仁の目が一層鋭利になる。

「俺のこと好きなの?」
「好きだよ。理仁のことが好きだよ」

環は目の前に立っていた理仁の胸を突き放すように押した。理仁は後ろに数歩よろめき胸下まで藻に浸かる。

「普通にそう言ってよ」
「でも勝田エリーがいたら言えるわけないじゃん、バカじゃないの」

なんであの時、学祭行ってしまったんだろう、と後悔する。勝田エリーなんて私たちの前に現れなければ良かった。二人が接点を一生持たなければ良かった。

「そういうとこだよ」と理仁が呆れたように吐き捨てた。

「もう大人なんだから自分の感情くらい自分で処理しろよ」

青空と紅葉に挟まれた山の奥地。

広い広い倉庫の中、ベルトコンベアーにボロボロに傷付いたハートが並び、ガタゴトガタゴト揺れながらそれは環の手に届く。検品してはもう使い物にならないやつを投げる。投げる投げる。

こうなったのはお前のせいだ。くらえ。

だけどその背中は当てても当てても振り向かない。鈍感じゃない、頑として振り向こうとしない。

もう自分でハートを直すの疲れました。お前が直せ。責任取って直せ。

涙が出た。それは環の頬に筋を描いて顎まで落ち、少しの間揺れながら留まったあと、吸い込まれるように灰がかった薄暗い苔色の水面に落ちる。

「本当はミジンコなんか興味ない」
「は?」

理仁は眉間を寄せ険しい目を見せた。

「ミジンコなんて知らない。ぜんっぜん興味ない。これっぽっちもない」

環よ、それを言ってはダメ。この男に決して言ってはなりません。きっと今に後悔します。

「そんな事言って、みんなに失礼だと思わないわけ?」

ほら。完全に理仁に呆れられてしまいました。

環は好意の伝え方を25過ぎても知らない。私が好きなのはミジンコよりもあなた、というシンプルな誤解を解くのに、どうしてこんな風に言わないといけなかったのか。

一度出た涙は数珠をつなぐように次々溢れてはこぼれ落ちる。

「環のこと好きとか言うんじゃなかった。勝田さんの方が数倍いい女だよ」
「知ってるよ、勝田エリーの方が数百倍いい女だよ」


おわった。THE END。

理仁はガツガツ水を掻き分け岩場へ戻ると、黙々と着替えさっさと遊歩道に消えた。

環は一人、冬の冷たい湖に置き去りになる。

真後ろに倒れてぶくぶくとこの湖に溺れて死にたい。そして何もない別の世界で、そうだナポリにしよう、あそこなら理仁なんていないだろうし、気持ちのいい港町だし、いっそのこと猫にでも生まれ変わって魚を与えられながら一生を全うしたい。

そのあとはそうだなあ、アラスカのサーモンにでもなりましょうか。グリズリーに食べられようと、凍結されようと、いいんです。しばらく日本には帰ってきたくありませんから。

明日から放浪の旅に出たい気分です。

ま、論文から逃れられるわけありませんが。

ハートは粉々になって足元に散ってるけど、もし少しでも塊がそこらへんに転がってたら掴んで遺骨のように打ち砕いてやる。そして風に舞え。

また木の葉が頭上を舞った。それは水面に落ちて浮かぶ。

#13

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