#13 こえろ、ミジンコ
覆水盆に返らず。一度起こしてしまった失敗は取り返しがつかない。可愛さ余って憎さ百倍。日ごろから可愛いと思っていた人に裏切られ一度憎しみの感情を抱いてしまうと、可愛いという感情の何倍もの強さになる。喧嘩両成敗。喧嘩した人は両方悪い。喉元過ぎれば熱さを忘れる。辛いことも、苦しいことも、過ぎ去ってしまえば忘れてしまう。
過ちては改むるにはばかることなかれ。過ちを起こしてしまったと気付いたら直ちに改めるべきだ。
良薬は口に苦し。いい忠告は素直に受け入れがたい。
そういうとこだよ。もう大人なんだから自分の感情くらい自分で処理しろよ。勝田さんの方が数倍いい女だよ。
環の耳にリフレイン。鳴り止まない冬の夜のサイレンの如く繰り返される。どこかで火事かしらね、寒くなってくると救急車が増えるわね、お風呂での事故かしら。今もどこかで救急車が走り抜けていく。どこかの犬が同士だと勘違いしてギャンギャン吠える。遠くなったのか目的地に到着したのか、すぐにサイレンは消えた。
環の体がベッドと一体となってどれだけの時間が経過したことだろう。昨晩もご飯を食べられず、朝も目覚めることができず、気付けば昼前。胃がいら立ったようにぐうと音を鳴らし空腹を知らせた。
だめだ、痩せてしまう。やせっぽっちになって干からびて白骨化してから発見されるなんて嫌だ。もし第一発見者が理仁だったらどうする。ものすごい異臭がドアの隙間から漏れたら?幻滅されるに決まってる。
体液が漏れだすと聞いた。やだ、好きな人に体液の匂い嗅がれるなんて絶対に嫌だ。生きねばならぬ。私は生きねばならぬ。
やっと環は体を起こした。空腹も空腹である。姿勢を変えるとまた腹が鳴った。
土曜日。本当は研究室に潜り込み、昨日できなかった分を取り戻す予定でいた。しかし、しかし。環は尻込んでしまう。理仁がもしその空間にいたら耐えられない。
ミジンコなど興味ないと豪語してしまった手前、ミジンコ研究室に入る資格はないに等しい。ミジンコに興味あります、と言ってしまえばいいだろうか。お許しは頂けるだろうか。
お前、ミジンコなんて興味ないんじゃなかったの。そう、あの目で言われてしまったら、就職もせずのうのうとドクターであり続けてる我が身は木端微塵である。居場所を失う。
あのミジンコ研究室はニートに近い環の唯一の居場所でもある。役立ててるかどうかは別として、世の中からあぶれてしまったような存在を受け入れてもらえてる。
昨日に戻って、あの岩場に胴長姿で並んで座り、景色を堪能し、手のひらに湖を創り、「キレイね」と囁く。それで良かったではないか。「キレイね、私、実は理仁のことが好きよ」そう言えば良かったではないか。それが何故・・・。
なして!なしてオラほだごど言ってしまった!
環は居ても立っても居られず、①冷凍庫からラップに包まれたおにぎりを取り出し電子レンジにかける。②解凍してる間に納豆パックの蓋をメリメリ剥がし、豆が付かないようフィルムを丁寧にめくり蓋に貼る。③だしの効いたタレとからしを納豆の塊の上にだらりと掛けまわし、④こげ茶の木の箸で勢いよくかき混ぜる。
ああああああああ!くそおおおおおおお!なくなれ、昨日という一日よ、なくなれ!
電子レンジがポップなメロディで加熱の終了を知らせた。⑤ほかほかに温められた米を茶碗に転がし、その上から④の混ぜた納豆をかけて、はい出来上がり。これが嫌なことを忘れたい日の納豆ご飯である。
しょっぱい。涙の味だろうか、いや、納豆の味である。しょっぱい。米が相対的に少ないのである。でもわずかながら活力に繋がった。これからもミジンコ研究室の一員として生きていかないといけないのだ。やるんだ、やるんだ、環。
納豆を勢いよくかきこむと我が身を奮い立たせ、出かける準備をする。
なかったことにしよう。堂々と居座るんだ、あの研究室に。理仁に嫌われようと、全員から噂されようと。
帰りのバスで理仁は一番後ろに座り、環は一番前に座り、ただならぬ険悪なムードを漂わせ、周りの学生がコソコソと気を遣わざるを得ない空気にしていた。
人の噂も七十五日。人の噂は一時的なもので、やがて忘れ去られるものだから放っておけばよい。
環は寒いダウンの上からリュックを背負い、家を出た。
◇
研究室にはあろうことか理仁しかいなかった。ドアの窓枠から中を覗き込み、その薄暗い中にいる人物を認識した時、環は直ちに帰ろうとした。
しかし、はたと思い直す。
ここを乗り越えないでどうする。さっき納豆をかきこみながら、堂々と居座る決意をしたではないか。中に入るんだ、中に入ってルーティーンのメダカの世話とミジンコの観察をするんだ。
しかし待てよ、第一声は「おっはよ~」だろうか、何か声掛けが必要だろうか。
少しの間考え、環は決意した。最良の策は「無視」である、と。
目を瞑り、深呼吸する。よく吐かないとよく吸えない。鼻から十分に時間をかけて吐き出す。肺が存分にペチャンコになってそこにはもう何もないことを感じ取ると、今度は思いっきり吸って吸って吸って吸って~~~レントゲン撮影のごとく肺を大きく膨らませ、息を止めてドアを開けた。
理仁が振り向く。一瞬目が合ったが、彼もまた無視を決め込んでいるのであろう、そこにいるのが環と分かるとすぐパソコンに目を向けた。
自分で無視を決め込んでいたはずの環だったが、なぜか無視されるのは気分が悪かった。さっき肺いっぱいに吸い込んだ息をゆっくりと鼻から吐き出し、いつも座ってる定位置にカバンを置く。
メダカを見に行きたいが、どうせ先に来た理仁が軽くチェックしてることだろう。環はノートパソコンを開いた。
無視すると決め込んでいるものの、決まってすることと言えば理仁の論文から盗み取る作業である。悲しいかな、ここのネットワークサーバがないと環の論文は完成しない。
み、じ、ん、こ、L、O、V、E、、、ミジンコへの最大の敬意と愛情を繕い、論文作業に取り掛かる。私はこの研究室にふさわしい人間です。
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