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#10 こえろ、ミジンコ

今日も環の目の前にはひたすら英文が並ぶ。時間は夕方5時を回った。そう、環は3時のおやつを過ぎると集中力が落ち生産性が一段と低下する。それに本人が気付いているのかいないのか、さっきから何度あくびをしたことだろう。

告白から2日経った日の夕方。5時とはいえ、とっくの昔に陽は落ち外はすっかり夜だと言わんばかりの表情をしている。いつの間にか親切な誰かが黒いカーテンを閉めてくれていた。

まだまだ論文の終わりが見えない。画面を上にスクロールして気付く。え、今日これしか進んでないの。写真とデータを貼り、上下に文章を書き足したものの読み返すとその内容の薄さに愕然とした。それだけでなく、自身が書いた文章の言い回しにもしっくりこない。

環はそこだけプリントアウトし、プリンターまで行って拾うと理仁の席に向かった。

「ねえねえ」

環の呼びかけに、理仁はイヤホンを取って見上げる。

「ここさ、自分で書いてて思ったんだけど、ニュアンス的に変じゃない?見て」

理仁は環から受け取ったプリントを一瞥し、ちらりと時計を見た。

「これ、家で見るわ」
「え」
「俺、もう帰んないといけない、ごめん」

言われてみると少し急いでるような口調で理仁は言う。珍しい。この年がら年中朝から晩まで研究室にこもりっぱなしの男が夕方5時に帰るだと。何事ぞ。

「ごめん、ほんとごめん、明日」

理仁はそう言ってプリントをバッグにしまう。環の頭の中にざっと「理仁が5時に帰らないといけない理由候補」が並ぶ。

本命◎具合が悪い
対抗○宅配が来る
単穴▲洗濯機の修理
連下△親が来る
大穴☆犬か猫を飼った

なんだろ。

そうこうしてるうちに、理仁は慌ただしくバタバタと片付けていく。これはただごとではない。嫌な予感、なわけあるかい。きっと具合が悪いんだ。「具合が悪い」は「嫌な予感」に入らないのか、という批判は今はさておき。

「大丈夫?具合でも悪いの」

環の問いかけに「え?」と理仁が視線を向けた。

「いや、そういうんじゃないけど」

予想は外れた。嫌な予感しかしない。いや、でもきっと違う、宅配の受け取りだ。

「すみません、お先します」

理仁は全体に軽くそう言ってドアへと向かう。環はその背中を目で追う。ドアが静かにスライドされると、環の目にその向こう側の光景が飛び込んできた。

廊下の壁。

彼の終わりを待つ姿。

そう、理仁の姿を見て笑顔になる勝田エリーではないか!

Ouch!見てはいけないものを見てしまったかのように咄嗟に目を逸らす。骨を撃ち破いて脳天を突き刺してきたクラゲ。

ドアはすぐに閉められたが、毒が体中を巡る。アナフィラキシーショック。

彼の中でミジンコをクラゲが上回った。ミジンコは彼の人生の支柱だったのでは?

せめて大穴の犬か猫を飼っててくれたら良かったのに。例えメス猫でも私は可愛がってあげた。

環は震える手でもう一部プリントし直し、李さんに添削を依頼した。

落ち着け、落ち着くんだ環。

翌日、理仁はいつも通り研究室に姿を現した。環の顔を見てハッとしたように口元に手を当てる。おそらく環のことなどすっかり忘れていたのだろう。

環はすぐに「大丈夫だよ」と言った。

「え?」
「李さんに相談した」

理仁は罪悪感と不甲斐なさを感じさせるように、グッと口を閉じる。

「デートだったんでしょ、昨日」

悪いことがバレた子どものように、理仁は視線を宙に向けたままだ。

「まあ、いいや」

環は紙を一枚、固まり続ける理仁に差し出す。

「それよりさ、ここ逆の検証は必要ないのかな。否定するにはデータが足りない気がして」

理仁もやっと強張っていた表情を崩し研究室モードに変えた。

「やっぱいると思う?」
「絶対そこらへんつつかれると思うよ」

理仁はカレンダーに目を向け、顎に手を当て考え込む。年明けに教授に提出することを考えると、今から実験し直してそれを論文に盛り込んだらギリギリになる。クリスマスどころか年末年始も浮かれてる場合じゃないだろう。

顔を上げた。

「やろう」

環は頷き、論文を書く予定で広げていた書類を山のように端に寄せ、実験の準備を整えた。

そしてふと、これでまた忙しい日が増えたらいいのに、なんて思惑が自分にあったことに気付く。

理仁のことを途中で抜け出せないくらいにミジンコで忙しくしてやる。クラゲとのデートになんて行かせるもんか。

#11

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