見出し画像

#14 こえろ、ミジンコ

街はもうすっかりクリスマス一色。青白いLEDの電飾を付けたクリスマスツリーが多くの人の目を惹きつける中、環はそれに目もくれずツカツカと前を通り過ぎた。

理仁とは未だ一言も話していない。

イルミネーションに使われる一つ一つの電球をでこぴんで弾き飛ばしたい衝動に駆られる。浮かれやがって。

高尾は赫耀と光り輝く横丁のアーチの下にグレーのビジネスコートを羽織って立っていた。環に気付き、スマホから顔を上げ笑顔を向ける。そのなんと爽やかなこと。環は少しよろめいた。研究室の陰鬱とした空気に慣れすぎ、男性の笑顔というものをしばらく見ていなかったのである。

高尾は慣れた様子で横丁を歩き、入ってすぐのおでん屋の暖簾をくぐる前に「ごめんね、こういう店ばっかで」と寛いだ笑顔を向けた。

「全然、好きです」と環は答える。

嘘でもなんでもない。環は冬のおでんが大好きなのである。なんなら、美味しいのか美味しくないのか、まあ美味しくないんじゃないか、というような優奈と行った馴染みのないエスニック料理よりも、安心感のある冬のおでんの方が優に超える。

高尾はのれんが頭にかからないよう手でめくる動作が必要だったが、環の頭にはかすりもしなかった。

高尾の後に続いて店内に入ると、右手に懐かしい畳の小上がり席、左手には厨房に沿ってカウンターがL字型に折れていた。半分ほどの席が先客によって埋められ、皆既に酔いが回り声のボリュームが3割ほど増しているようだ。

壁にはずらりと具材メニューが並ぶ。はんぺん、たまご、大根、つみれ、昆布、こんにゃく、ごぼう巻き…。

二人は力強い筆で書かれたそれらのメニューの下にあるちゃぶ台を囲んだ。

高尾はコートとジャケットをハンガーに着せ長押に吊るし、環はダウンを適当にぐるっと折りたたみ崩した足のすぐ脇に置く。

ビニールの袋に入った温かいおしぼりが二人の手元に置かれ、そこに手を乗せると凍てついた指先がじわじわと溶けていく。袋を破って取り出し、両手の上で広げると小さな炬燵が完成した。

高尾もおしぼりの温かさを噛み締めるように拭いた後、メニューを見ながらネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ開けた。そしてあぐらをさらに崩す。生飲めたよね、と一言だけ環に確認し、すぐに片手を小さく上げ店員を捕まえるとメニューを数品注文した。

すぐにジョッキになみなみ注がれたビールが運ばれてきた。簡単に乾杯をして一口飲む。泡が環の口の中で静かに弾けて消え、その後ほろ苦さを連れてきた。寒いのに冷えたビールが美味しく感じるのはなぜ?

高尾もまたビールを口に含んでゴクリと飲むと、たまんない、といった感じであぁと小さく唸ってみせて、それから「なんかあった?」と環の横顔を覗いた。

環はハッとして、フィールドワークの時の湖と、青空と、水の冷たさを思い出す。エメラルドグリーンと赤茶に燃ゆる木々たちの見事なコントラスト。思い出したくもないが、焼き付いて離れないほどシャッターを切ったように瑞々しく脳裏に描かれる。

あれは環と理仁だけの空間だった。二人で冷たい水に腰のあたりまで浸かり、互いに手のひらを汚し合った。ほんの僅かなひと時、どうしてもっとあのキラキラとした瞬間を大切にしなかったのだろう。

手のひらに出来た小さな水辺。それは理仁が環に創り上げた。崩さぬよう大切にたぷたぷと表面張力に頼るように重ねられた手の中にしまっておくべきだった。決して自ら壊すものではなかった。

あの瞬間まで、確かに二人の間に共通した世界があったはずだ。二人だけで創り上げてきた世界が。

壊したのは自分だ。

環はフィールドワークでの出来事をゆっくり話し始めた。

淡々と事実を順を追って述べているつもりが、話していくうちに気付かされる。勝田エリーの登場によって、ただの純粋な恋心だったはずの感情が、劣等感と優越感と自尊心とコンプレックスと、様々な器具によって何度も形を変えられて壊されて作り替えられたこと。本当はもっともっとシンプルでキレイな形だったはずだ。

高尾はその時その時惹かれた具材を鍋の中から選びながら、共に酒を味わい、静かに環の話に耳を傾ける。話を遮らないように、しかし食べ物が途切れないよう、さりげなく食べ物を注文するところに対人関係スキルの高さを覗かせる。一人で話し続ける環はそんな気遣いに気付くはずもなく。

「ただ、もう勝田エリーに会ってほしくないって伝えたかっただけなのに、なんであんな形でぶつけないといけなかったんだろう。『自分の感情くらい自分で処理しろよ』って本当にそれなんですよね。理仁はただ勝田エリーとしか向き合ってなかったんですよ。私は部外者以外の何者でもなくて、突然二人の間に走って出ていって勝手に怒鳴り散らかして、迷惑もいいところですよね」

そう言った後、力抜けたように、はあ、としみじみため息を吐き切って、すっかり泡の消えてしまったビールに手を伸ばす。

「眩しいね、青春じゃん」

高尾はそう言って笑い、そこに理仁がいるかのように箸先で指しながら説いてみせた。

「理仁くんもさ、普通女の子に好きって言われたらまずは『ありがとう』だろ。女の子に惨めな思いをさせちゃダメなんだって、20過ぎたらさ」

そこまで言って「でも、あれか」とその箸先が宙でピタリと停止する。高尾の目尻と肩の力がふわりと抜け落ち、口元には穏やかな笑みが浮かんだ。

「そう言い合えるのが二人の関係なんだろうな」

脱力したように呟く。そして、焼酎の出汁割り飲も、とアルバイトのような若い男の店員を呼び止めた。美味いよ、と勧めてきたので環も便乗する。

焼酎の出汁割りは延々と飲めてしまうのではないかというほど中毒性があった。環は滅多に焼酎なんて飲まなかったけど、スープとアルコールの中間に位置するこれだけは美味しいと素直に感じた。

「もうさ、あれだよ」

高尾は牛すじを歯で押さえ、スッと横に串を抜きながら言った。

「論文と学会を頑張るしかないよ、だってそれが理仁くんの今の全てでしょ。勝てるとするならそこしかないじゃん」
「私に、まだ望みありますかね」
「たぶん理仁くんがただの美人好きなら、もうとっくに付き合ってるでしょ、その準ミスと」

おでんの出汁のように染み渡り、じわじわと体を芯から温めてくれる言葉。理仁はまだ迷っている。英語もドイツ語も操れ、透明感があり、弾むように歩くクラゲのような美女に告白されたのにも関わらず。

環は少し泣きそうになるのを感じ取り、出かかっている涙を押し戻すように焼酎を流し込んだ。

二人の間に少しの沈黙が流れ、その間、互いに黙々とおでんをつまみ酒を飲む。餅の入った巾着を食べると、もう年越しがすぐそこまで来ていることに気付き、遠く離れた実家を思い出した。環はクリスマスは好きではないけれど、年末年始の雰囲気は好きだと思う。

「そうだ、要らないかもしれないけど」と高尾がズッズッと引きずるようにカバンを手元に引き寄せ、中からボロボロになった冊子を取り出した。

「俺が同じ国際学会で発表した時の資料。探してみたらあったから」

そう笑いながら環に向けて差し出した冊子には、たくさん練習した跡が書き記されている。

「いいんですか、これ」
「大丈夫、緊張してない学生なんていないから」

高尾は俺もそうだったよ、と言わんばかりに背中を押すような口ぶりで笑う。

スマートなこの男でも緊張してた、という裏側を知り、環はずっと頑なに結ばれてた心の紐がするりと解けた気がした。

「でも良い経験だよ、京都でしょ?楽しんでおいでよ」

高尾は笑みを見せながらさりげなく左手の腕時計を確認し、そろそろ出ようか、と言った。時間は9時前。

駅に向かってる間、高尾はすぐ近くのマンションに住んでいると言った。環は、なるほど稼いでる人は便利な所に住めるもんだ、と驚きながら辺りのビル群を見回し、そういえば優奈も駅から徒歩圏内のマンションに一人暮らししてることを思い出した。

高尾は別れ際、はらりと手を振りながら、「環ちゃんも十分いい女だよ」と言った。

単純な環は、また調子良く前向きになる。帰りは不思議と、イルミネーションなんかにイライラしない。

#15

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?