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#17 こえろ、ミジンコ

世の中がカウントダウンを少しずつし始める大晦日の夜。

環は紅白歌合戦に備え、早めにシャワーを浴び、すっかり一人で年越しするつもりでいた。

大掃除した際に見つけた夏の素麵を茹で、熱湯で薄めた麵つゆに落とす。環なりの年越し蕎麦のつもりだった。

午前中起きてから1時間と、午後3時間ほど、間に何度も休憩を挟みながら大掃除した部屋。環は部屋全体を見回しながら、なぜあれほど掃除したのにキレイになった印象がないのだろう、と不思議に思った。

棚から溢れ出る洋服を捨てればいいのに、なぜかサッシに詰まった埃を取ることに時間を取られ手が回らなかったから、ということには気付いてないようだ。カビ取りだったり、除菌だったり、見えなければ見えない世界ほど気になる人間らしい。

静かないつも通りの部屋。テレビから流れる初めて聞くような歌謡曲に耳を傾ける。

この人たちも帰省しないんだろうか。

のびやかに歌う歌手たちを眺めながら、不思議と親近感を抱いた。

その時、スマホがテーブルの上で音を立てて震えた。画面に映る「林理仁」の文字。

慌てるように耳に当て、「はい」と応えると

「孵化した!」

興奮気味に突拍子もない報告。

「え?」
「卵!孵化したから、来て!今すぐ来て!」

突然のリーダー命令。CASE.16の実験再開。

なぜ!?なぜなの!?
こんな大晦日に産まれてくるなんて!
CASE.16のオスだと思われるミジンコども!

バタバタしながら、本日手の回らなかったクローゼットを開ける。下に置かれたポリプロピレンの衣装ケースの中にたしかあったはずだ。

スカート。

そう、これはれっきとしたデートである。環はシワの入った、いつぶりかも思い出せないデニムのスカートを引っ張り出した。

急いで着替えメイクする。



103のドアを勢いよく開けると、奥の部屋から理仁が「おー!」と顔を覗かせた。

環は急いで靴を脱ぎ部屋に上がると、顕微鏡から顔を上げた理仁が「今んところ、全部オス!」と嬉しそうに言う。

「よかった」

環は思わずその場にへたり込んだ。

環が理仁のパソコンを借り、二人であーだこーだ言い合いながらラストスパートをかけて論文を書いていた時、ゴーン、と街全体に除夜の鐘が響き渡った。

ゴーン。

どうしようもないほど侘しく夜に溶けてしまいそうな音。これも日本のワビサビという美意識の一つだろうか。言われてみれば奥深さを感じる気がしないでもない。

環と理仁は目を合わせた。

「初詣行く?」

理仁が言った。環はキーボード打つ手を止め、「うん」と答えた。



外の空気がツンと頬を刺す。首元までグッと上げた襟に顔をうずめるが、寒気を遮断するほどの長さはなかった。

「さっむ」

理仁が背中を丸める。

「こんなんじゃミジンコ死んじゃうよ」と環が言えば、「絶滅しないためにオスがいるんでしょ」と理仁が修正する。

そう、メスだけの単為生殖によって産まれた卵は環境の悪化に耐えられないが、オスとの受精卵は環境の悪化を乗り越えられる。

環境が良くなるまで眠って待つことができる。

「ロマンだよね。オスとメスがいて、初めて困難を乗り越えられるんだよ、ミジンコは」

理仁が静かな高揚を含ませて呟く。彼は本気である。

「俺は、ミジンコのオスみたいなヒーローになりたい」

この人間は本気で、そこにロマンを感じてるのだ。

環は意味わからん、と頭空っぽの状態で理仁の顔を下から見上げた。

#LAST

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