#6 こえろ、ミジンコ
週が明けると、大学は一気に学祭の興奮をかき消すように地味な日常に姿を変えた。とくに研究棟は何一つ手が加えられていなかったから、金曜夜9時半から何も変わらない佇まいでいた。
環の論文もそのままだった。土曜に「家帰って昨日の続きやる」と声高々に理仁に宣言したものの、家のネット環境からはアクセスできないサーバー上に理仁の論文はあり、常套手段のコピペができないのでは環の論文なんぞ微塵も進まないのがオチだった。
環は相変わらずミジンコの世話をする。
当番制を強いらずともこの研究室の人間は進んで水槽の掃除をし、メダカを愛で、ミジンコを育てる。ミジンコは特に飼育は難しくなく、なんなら勝手に増殖し個体が増えて酸欠となって死ぬくらいだ。気をつけるとするならば最近は気温が低くなってきたこともあって水温の管理程度だった。
しかし環境が悪化すると、わざわざ理仁がホルモンを注入しなくともミジンコはオスを生む。だからなんだという話だが、遺伝子学的な研究に用いられる性格上、遺伝的な点はガッチリ管理されなくてはならず、オスが産まれてしまってはそれらの命はメダカの餌以外の何者でもなくなってしまい、無防備に「オスが産まれちゃったねー」じゃ済まないのである。
環は数十個並ぶボトルに目を配り、管理不足でミジンコ大量発生の一途をたどってしまったボトルを選んでは無情にもドボドボとメダカの水槽に落とし込む。食物連鎖。
たくさん食べて大きくなってね。
窓から射し込む外の光を吸収しキラキラと自然界の輝きを放つ水槽に生温い笑みを向けていた時のことだった。
「こんにちはー」
聞き覚えのないクリアな声が研究室に響いた。
これは何事ぞ、と研究室にいた誰もが(教授、助教授、根本さん、ガルシアさん、李さん、理仁、環、その他学生)声の方を振り向く。全員の視線の先には、二度見しようとも三度見しようとも、何度見直してもこの研究室にそぐわない勝田エリーが立っていた。
準ミス。
いや、ミスコンどころか学祭にも縁のない研究室の人間にとっては「お人形のようなハーフ美女」以上の人間ではないのだが、研究室にいた全員がまるで犯人を探すかのような目つきで顔を見合わせる。
一体彼女は何目当てだ・・・。
環はギョッとし理仁に目を向けるとバッチリ目が合う。
“来たじゃん、本当に”
“本当に来るとは思わなかったんだよ”
理仁の狼狽えた視線が訴えている。
「林さん、ちょっといいですか」
準ミスのクリアなボイスが薄暗い研究室に響き渡る。林、って林理仁のことか、と全員の視線が理仁に向けられ、必死にこの二人の出会い因子が探られた。よもや準ミスからの逆ナンとは思うまい。
「あ、はい」
理仁がそう言ってやっと立ち上がるのを、教授をはじめとする全員で見守る。
研究室を引っ張ってきた若きエース・ミジンコ馬鹿がなぜこんな絶世の美女に呼ばれてるのだ。
教授が環に「だれ?」と目で尋ねる。環は口パクで「ミスコン」「準ミス」と言うと、より一層教授の瞳は不可思議な現象を見る目付きに変わった。
理仁が勝田エリーのところまで行くと、静かにドアは閉められた。
研究室にいた全員が息を潜めていたのか、フーと息が漏れる。
「美丽(メイリー)・・・」
環以外、この研究室唯一の女性である李さんが感嘆しながらこぼしたその一言は、中国語なんて分かるわけもない環にも、美しいとでも言ってんだろう、と察しがついた。
「She is miss-contest」
環は李さんに向けてそう説明してから、彼女がコンテストなわけじゃないけど、と思ったが
「Waaaao」
ガルシアさんと李さんには通じたようで驚きの表情で顔を見合わせる。
「林に広報のインタビューか、何か?」
教授が言ってきた。ミスコンに出た女がミジンコ研究室に声を掛けてくるというのは、つまりはそういうことか、学内新聞のインタビューか、という見地である。なんと悲しいこと、その境遇の違いから色恋沙汰とは思われない。
「いや、完全プライベートなお誘いです」
環が答えると、教授も遅れて「ワーーオ」と日本語で言い、そこには若者たちの恋愛模様を楽しむ姿勢と「なんだ、インタビューじゃないんかい」という少しの落ち込みを感じさせた。
同時に全くそういうものに興味はないが、一応同じ研究室に属する人間として3年の根本さんも目を見開いて驚く素振りをする。
たった一人、環だけが楽しむ余裕もなく焦燥感に駆られていた。
あの女、本当に来た。薄暗くて部外者には到底ドアを開けられそうにない不気味なミジンコ研究室に。一体、二人で何の話をするんだろう。
20分後、戻ってきた理仁の手にはクラゲの幻想的な写真と「幻想ナイトリアム」という文字を載せたチラシがあった。
「誘われちゃった」
理仁は隠すでもなくサラリと言う。なんですと。
「えっ」
「Oh,my God...(なんてこった)」
環とガルシアさんの声が重なる。
「土曜日行こうって」
続けられた理仁の告白に、ガルシアさんは小さく「wao」と呟いた。
私だってワオだ。
切ない。
陰ながら落ち込んでいる環の肩に李さんは手を乗せ、そして理仁に聞こえないほどの小声でこう呟く。
「I feel for you(あなたに同情するわ)」
なんとバレていた。環の密かな片想いがもう既にバレていた。少なくともこの李さんには。OH,MY GOT.隠し切れてないと分かるとなお一層気落ちし、それは表情にまで出てきてしまう。
好きな人が、学校一の美人(正しくは2番目だが)とデートに行っちゃう。
「What should I do?(どうすればいい?)」
環は泣きそうな小声で救いを求めるも、李さんは「さあね」と悲しみの笑顔で首をすくめるだけ。
じっくりと手元のチラシを見つめ続ける理仁。
行かないで、ああ、行かないで。
環の心の叫びも虚しく、一週間はあっけなく過ぎるのだった。
◇
理仁と準ミスのデートはとうとう明日と迫った金曜の夕方4時。中庭の自販機前に理仁はいた。
その姿を研究室から追いかけてきた環が背後から「ねえ」と声を掛けると、理仁は軽く驚いて振り向く。
「ああ、環もなんか飲む?」
そう言う手にはコーラ。環は「これ」と言って赤く「あったか〜い」と示されたゆずレモンを指さす。「HOT」や「温」ではなく「あったか〜い」と表現しようと決めた人間は天才か。
理仁がボタンを押すと、ゴトンという音を立てて下の窓口にそれは落ちてきた。
「ありがと」と理仁の手から受け取る。それは確かにあったか〜い。ゆずレモンさんが「環、頑張って」と応援してくれてるかの如くじんじんと掌を暖めてくれる。
「明日、行くの?」
環はそれとなくオレンジのキャップを開け、聞いてみた。理仁は「うん」とだけ答えコーラを豪快に飲む。
うん、じゃねえよ。行きたくないんだけどさ、とか、クラゲだけは興味あるからさ、とか渋々な姿勢を少し滲ませてくれよ。
「大丈夫?」
「何が?」
「あんな美人と二人でデート」
環もそこまで言って、核心付いた問いかけであることを匂わせないようにゆずレモンを飲む。
体にじんわり沁みる甘い酸っぱさ。
環ちゃん、焦ることないのよ。
まつ毛をピンと生やした、ゆずレモンさんが言う。
「たぶん、『この人、話つまんないな』って思われて終わると思う」
理仁が少し笑いながら自虐的に言った。
んなわけあるかい。向こうだってキャンパス内でかっこいいとずっと思ってた人とのデートだぞ。
「いや、案外楽しいかもよ」
環の口から言いたくもない一言が漏れる。どうもこういう時に素直になれない。デートなんて滅亡しろ。
「ダメならダメで別にいいけど、クラゲにはちょっと興味ある。何クラゲがいるのかなって」
理仁は本心でそう思ってるのか、デートが失敗しても落ち込まない保険材料としてそう思ってるのか分からない口調で言った。しかしミジンコに全てを捧げてきた男のことだからクラゲに惹かれているだけというスタンスも理解できなくもない。
いやしかし、美人とのデートを前に浮き立たない男などこの世にいるだろうか。思春期前ならまだしも、25で。
理仁は女に興味がなかったわけではない。興味のある女が近くにいなかっただけだ。として、もし、興味のある女が目の前に現れたら。
背中をガリガリと鍬で掻かれ、背骨をにゅっと掴みはずされると中に潜めていたボロボロのハートが見つかってしまった。やめて、もうそれには手を付けないで。そんな声も届かず、爪が伸び乾き切って皺が深く刻まれた手によって持っていかれる。
環のぼろぼろハートの運命は週末の幻想ナイトリアムに託された。
無事に帰ってきて、私のハート。
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