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【ショートショート】夏の匂いに負けた恋

私の大好きな男が言った。

「あれ?俺らって付き合ってたの?」

続けて「ごめん」と笑って謝った。


濡れた地面が提灯の赤を揺らす、悲しい店の前。そこに私は立ち尽くした。わずか数秒。

ついさっき、私の口から出た言葉がもたらした自業自得の展開。私が悪い。

「そういえば私たちって記念日みたいなそういうの、決めてなかったね」

そう言ってその目を見た途端に、なんとなく言われなくても分かった。

くそう。

少しだけ「ん?」って目を見開いてくるから、思わず私も「ん?」って返してしまった。

俺らって付き合ってたの、と、ごめん。

私は重ね重ね振られたってわけだ。

なんとなく、私の中で1ヶ月経ちそうだったから聞いてみたのに、始まってすらいなかったというオチ。

大人って告白とかなくてもこうやって付き合うもんなんだなーなんて思って自惚れていた。

ただのセフレだったんかい。

「俺、そういうの言ったことあったっけ」

彼は少し肌寒そうに白いTシャツの裾から伸びる腕を手のひらでさすり、軽く笑いを表情に乗せて聞いてきた。

9月になった途端、夜になると肌寒いから着る服に悩むよね。

まだ残る湿気に少し濡らされた前髪。ああ、かっこいいよ、なんでこんなにかっこいいんだろう。

私たちはなんとなく彼の家を目指して歩き始めた。

「前、『好きだよ』って言ったよ」
「俺が?いつ?」

忘れもしない、8月11日。
朝起きて、「私のこと好き?」って聞いたら「好きだよ」って言ってくれたから、「私もすきー」ってイチャイチャした。

あの日、私は幸せを噛み締めたんだ。絶対忘れない。

それから私は彼女ヅラをし始めたし、周囲にそれとなく恋人がいる雰囲気を出し始めた。

「1ヶ月くらい前」

私からのヒントを聞くと、彼は下唇を噛んで、思い出せなさそうに目をゆーらゆーらと泳がし始めた。

最後に上に広がる夜の雲を眺め、ぽつりと「お盆くらいか」と言った。

それだけか。

「山の日だよ」
「山の日か」

ふんふんと頷きながら勝手に歩き始める。きっとこの表情は山の日が何日かなんて覚えてない。

明日から休みだーって前日二人で遊んだんだよ。

「あれか、すっごい高い線香花火やって俺ん家来た時」
「そう、国産の」
「はいはいはい、あれすごく綺麗だったよね、高いだけあって」
「うん、綺麗だった」
「やっぱ国産は違うわ」

彼はそう言って、「さみーな」と歯を噛み締めて腕をさする。

「夏終わったみたいで寂しいね、なんかもう夏の匂いがしない」
「しないね」
「あの日はしたよね」
「うん、したした」
「夏の夜の匂い」

点滅する赤信号。酔っ払いを乗せたタクシーしか通り掛からない。彼の長い足が、ザ・ビートルズのアビイ・ロードのように横断歩道を渡ってくから、私は追い掛けるように少しだけ小走りをする。

突然起きた犬に吠えられて、私はビクッとしたけど彼は慣れた様子で前を通り過ぎていく。いい番犬だ。

公園から大学生たちのような笑い声が聞こえてきて、自分のことは置いといて、こんな時間に何やってんだ、なんて思う。楽しそうで何より。

少し手を繋ぎたいけど、その手はポケットに引っ掛けられている。

近いようですごく遠い。

ああ、もし私が今変な男に声掛けられちゃったらどうすんの。

そんなことを考えていると、少し先を歩く彼は「ん?」と振り向いた。

「なんか買いたいのある?」と言うその視線は青白く光っている異様な深夜のコンビニに向けられた。おそらく大学生のような兄ちゃんがレジに立っていて、体格のいい男の人が一人雑誌を立ち読みしている。

「ううん、大丈夫」
「はーい」

彼はまた私の少し先を歩く。すっかり履き込んだいつものスニーカーのつま先だけが濡れている。

「あ!傘!店に忘れてきた!」

彼が突然私を見てきた。

「えー、戻るの」
「面倒くさいな」
「大事な傘?」
「ビニール傘」
「良くない?」

私たちは忘れ去られた傘の存在を無視するように歩く。

小さく彼の鼻からメロディーが流れてきた。「風をあつめて」だ。

私は彼のこの空気が好きで、この時のこの時間が好きで、気持ち良さそうに歩いているから、そんな今だけは彼の邪魔をしないように、とそう思う。

心の中ではずっと引っかかってるんだけど。

山の日でも、国産線香花火でも、夏の匂いでも、コンビニでも、傘でもない、私にとって大切なこと。

私は話をずっとはぐらかされてることに気付いてる。きっと彼は意図的に流しまくってる。あっちこっちに。

だけどつい許してしまう。

そしてきっと今晩も、彼の部屋についたらいつも通りセックスをする。

そう、私も私で振られたことをずっとはぐらかしてるんだ。だって、振られたことはミス、事故だったのだから。なかったことにしよう。

彼もなかったことにしてくれてる。私が好きだってこと。

私たちは双方に誤魔化しながら、この関係を続けていくのが一番なんだ。きっとそう。

彼の厚意に感謝。

・・・んなわけあるかい。

「付き合ってたの?」じゃねえよ、ふざけんな。

私の視界は突然ぼやけてしまった。

手くらい繋いでくれないと、前に進めそうもない。

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