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阿呆で愛しい生き物

人間は、適応することができる。
肩肘に力を入れて、新しい環境に飛び込んでも、
なかなかの割合で、慣れる。
それまでに造り上げてきた人間関係などを懐古する時間が減り、
今の環境でなんとか生きていこうとする。
この適応能力は、もちろん人それぞれだし、
でも、なかったらしんどいと思う。

先にポジティブな方について言及した。

裏返してみれば、なんでもすぐに、「当たり前」と
なるということだ。
初めは、喜怒哀楽さまざまな感情が動くのだが、
いかんせん人間には適応能力が備わっているため、
特に「喜」や「楽」においては、
すぐに慣れ、その状態、環境を当たり前と化す。

あんなに待ち焦がれていた大学生活も
こつこつとお金を貯めて買ったカメラも
緊張した新しい職場も
好きな人との同棲も
のぺっとした顔が気に入った新車も
毎年実家の目の前に咲く桜の花も

少し時が経てば、「当たり前」の日常なのである

先週、この映画を観た。
「余命」パターンは、よくあるのだが、10年というのに引っかかっていた。
余命のあとに続く期間として、耳にしない長さだったからだ。

不治の病で、余命10年だと宣告された小松菜奈演じる茉莉。
退院してから、社会の流れに戻ろうとするのだが、
周りを見渡せば、永遠に生きると信じて疑わない顔をする人たち。
当たり前に明日が来て、来年があって、何年後があって、老後がある人たち。
恋愛一つとっても、それは臆病になるのだ。
私には10年という限りがある。恋愛などできない。
でも、口惜しくも10年という具体的な期間は生きるのだ。
その矛盾に苛まれながら、坂口健太郎演じる和人との恋を進めていく。

この映画で私が感じたのが、

いや、みんな余命だ

ということである。
なぜ、宣告された人だけが、限りを感じる。
むしろ、のうのうと生きている人が、事故により余命1周間かもしれない。
(あまり、運命論的な考え方は好きではないが)

やはり人間は阿呆なのだ。
生を受け、この世に誕生したという環境に初めは泣きわめき感情を忙しく働かせていたが、
その生すら日常の中に適応させ、当たり前と化す。

でも、誰がどう足掻いても限りはあるのだ。

永遠に続くと思っていた大学生活も4年で終わった。
なぜ、「4年で終わる」という事実ともっと向き合うことができなかったのか。

終わりを常に意識すれば、生き方が変わる

くさるほど、言い尽くされた言葉だろうが、
あの映画を観たことで改めてそう感じざるを得なかった。

このカメラを手に取るのも今日が最後・・・
そう考えるだけで、シャッター音に耳を済まし、ファインダーの中の景色を堪能することができるに違いない。

今の仕事環境も今日で終わり・・・
そう考えるだけで、同僚と楽しくコミュニケーションをとり、上司にお礼の一つでも言えるかもしれない。

今年の桜が人生の最後の桜・・・
そう考えるだけで、特別な時間になるだろう。


もちろん、これを平和で余裕のある土曜日の午前に書いているから、
こんなにも豊かな考えができるのだという思いもある。
ちょっと考え方を変えるだけでいいのだ。
ほんと、ちょっと。それだけで、歯車の回りがよくなると思う。

最後に逆説的なことになるのだが、

気づいたら、もう卒業!!!寂しい!!!
もっと、こうすればよかった!!!

という、悔いの念を抱く人間の性は、どこか愛しい。
どうしたって適応能力に抗えないのだ。
阿呆な人間を卑下するのではなく、
愛しく思って、今日も、人生最後の休日出勤へと向かう。

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