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推しが名前を覚えてくれた日のこと① 2022/01/18

いわゆる認知というものに、
私は全く興味が無かった。

新大久保ドルに認知してもらうには、足繁く公演に通い、手紙やプレゼントを渡して名前を覚えてもらうという方法が一般的だと思う。

最初の3ヶ月の長期公演、私は推しに一度も手紙を書いたこともなく、プレゼントを渡したこともなかった。

ただ推しの歌が聴ければ満足で、自分のことを覚えてもらいたいとは思っていなかったから。

私はいわゆる2推しをしていた。
ライブ後の特典会では推しと、もう一人のメンバーの個チェキを撮っていた。
(ショーボックス用語?なのか、メンバーの個人チェキのことを個チェキ、メンバー全員のチェキを団体チェキ略して団チェキと言っていた)

もう1人のメンバーは、元々私がここに来るきっかけになったメンバーで、韓国の別グループで活動していた時から応援していた。

特典会の時は毎回その2人の個チェキと、団体チェキを撮っていた。

ショーボックスの特典会は、グループごとに違いはあるが、チェキを撮ってからそのチェキにサインを書いてもらう。

チェキは一緒に写っても良いし、メンバーだけのチェキにしてもOKだった。

最初の3ヶ月は、チェキへのサインは日付とメンバーのサインだけで、ファンの名前やメッセージを書くことは禁止されていた。

だから、名前を覚えてもらいたかったら手紙を書くしか方法は無かった。

もう1人の推しメンバーへは、私が韓国へ行っていた頃から手紙を書いていたから、日本に来てからも同じように手紙を書いた。
手紙と言っても純粋に応援の手紙だ。
昔から努力家の彼を、私は心から応援していたのだ。

ではなぜ本命の推しには手紙を書かなかったのかというと、自分でもよくわからない。

私は彼らより年上だったから、何となく申し訳ないような気がしていた。

韓国ではアイドルのファンはほとんど中高生だ。
大学、就職の年齢になると、世間的にアイドルのファンで居づらい風潮があるから、自然にファンを卒業していく。

日本に来て、自分より年上のファンに手紙をもらうなんて、もしかして嫌なんじゃないかと私は気にしていた。

だけど今考えると、チェキを撮ってサインをもらっても、ファンだとアピールすることもなく帰って行くヲタクなんて、逆に不気味だったんじゃ。。

そんなわけで、最初の3ヶ月、推しは私の名前など知るわけもなく、自分のファンだと認識すらしていなかったかもしれない。

彼らは1ヶ月間、韓国へ帰国してから再び来日した。

2期目の長期公演からサインのルールが代わり、チェキにファンの名前を書いてくれるようになった。

私は初めて自分の名前を、推しに名乗った。

名前、、ごめんなさい、名前を教えて下さい

名乗ったことは無いのだから知らなくて当然なのに、推しは名前を知らなかった事を謝っていた。

次に行った時、推しは当然ながらまだ名前を覚えていなくて、申し訳なさそうにこう言った。

ごめんなさい。もう一回だけ名前を教えて下さい。

私は名前を覚えてもらいたいという気が無かったから、全く気にしていなかったけれど、恐らく名前を覚えていないとファンから責められることもあるのだろう。

毎日来るファンならともかく、週末しか来ないファンの名前を一度聞いたくらいで覚えられるわけはないのだから、謝ることなどないのに。。

それからしばらく仕事が忙しくて、2、3週間ぶりに公演に行った。
サインの時に名前を名乗ろうとしたら、推しはちょっと待ってと言いながら、名前を思い出そうとしていた。

だけど思い出せなくて、

もう一回だけ、もう一回だけ、名前を教えて下さい。

と、また謝られてしまった。
なんだか本当に申し訳なくて、「名前を覚えなくても大丈夫だよ」と私は言った。

推しは、

ダメ。次は絶対、絶対に覚えるから!

と言っていた。
プレッシャーになってるようで、申し訳なかった。

この時、推しは私がどこから来るのか質問した。

私の家はとても遠かったからそう答えただけなのだが、推しの反応はびっくりするくらい大きいもので、動揺しているように見えた。

遠いところから来るということに衝撃を受けたのだろうか?

それまで毎回、定型文の会話しかしたことがなかったし、義務的な対応の印象しかなかったが、この時から推し対応が明らかに変わった。

いつも、遠くから来てくれてありがとう。

推しは、そう言ってくれた。

その日は少し打ち解けてくれたような対応だった。
私は少し、、嬉しかった。


長くなったので②に続きます。


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